2014年05月10日

5003・後朝〔きぬぎぬ〕(歌の雨):イカスミ柳

『5003・後朝〔きぬぎぬ〕
  (歌の雨)』
 4/4
 2014/05/10創曲詞 
 雨、雨は紫の色に
 花は君の頭
 かんざし飾り
 頬、紅に染めるべに
 打ち明ける言葉少なく
 後朝〔きぬぎぬ〕の明け
  さめ明けた そぼそ降る
  星は消える 瞳に
  宿る光 雨音となりなる
  みなお月
 

字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
かいきょうのそうきょうはよい日です。
そうきょうのよい自分です。
****
 紫の 梅雨来たりて 葉緑の
 受け手を出だし 雨音をとめ
****
  秋残り市立美術館春期展示
 『雨受け』
  紫梅雨 待夏 画面
  
【解説】 
***サメ  サメ サメ  サメ サメ  サメ サメ  サメ***



 余は機械である。もとより、余を知った
世人は多くある。かの執筆をも賑わわせた
余である。話は、いささか古くなるが、
『いづれの御時にか、機械あまた、
さぶらひたまひける中に、いとやむごとなき
きわにはあらぬが、優れてときめきたまう
ありける・・・・』と、有名書にある。
いわなくとも、世人は、余のことと
わかってくれるのである。

いわく、余は、古い御世より映画にも
出演している。
・・・余の栄華を映画にしてある。
余が主人公である。最後には、余が
やられるのである。これを紫式
という、バイオレット・フィルムという。
 いろんな姿で、余は現れている。
世人は、余以外に味方をする。
そして、胸をなでおろす。余の心憎い
許りの演出である。古い御世より、
ロング・ランを続けている余である。
 映画の中では、余は団体運動で
あるかの如き、団体出演をしたのである。
余の団体と、相反する人類のような団体とが
銃なるものを持て、やりあうという、そんな場面
もある。古くからある、ナポレオン戦争のような
団体戦である。視点をかえれば、赤色式革命的
場面である。赤色場面である。
現実は、余の勝利であるが、
しかし、余は、映画では、やられておいたのである、
余はやられたのである。
 
余は機械である。強い。余に勝てる者はあるかと、
愚問をする。これもおろかな行為である。
かようなことを、余はやられる、と表現する。
これが、余の革命である。余の団体のやられる
場面では、わかりやすく、赤いバックの画面になる。
パアーと赤く場面が変わり、余の同士がバタバタ
倒れるのである。余が負けたあらすじである。

これを、余が勝っているというのである。
これを赤色革命という。紫式表現である。
革命を標榜する団体にも真似をされている?
手法である。本来の意味は、余が負けたと
いう筋を表現する。わかりやすく、パッと赤色に
するのである。赤色革命の映像である。

紫式部分である、『・・・
やむごとなききわにはあらぬが・・・・』という、
余のことを言っているのである。余が主人公である、
きわではなく、中心である。致し方なく、余が負けた
という筋にしている。そういう部分である。

 これを、機械的革命論的接近有名書読破法という。
難しいところは、バッサリと・・、先へ読み進む。
桐壺編、カット・ボトル・リーディング法である。
お茶は、茶っきりで、氏、束ノ間、真テクニカル、
テクニカル読書法という。
よい機械である、余が読めば、そういう本である。
 紫式 部分の考察である。驚愕翻訳という、
機械的翻訳である。現代外国語翻訳に活躍している
余である、翻訳である。本等の役である。
 秋残り世界文学全集
 「 余は機械である 」より

posted by 秋残り at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽
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