「卒業43・錦帯(西山讃歌)」
5/4 20140220創曲詩
錦の帯と 腰に巻いて
すがらよ 文持つ手袋
そうきょう よい時
春を迎え卒業する
未来を歌えば
心は豊かに
字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
かいきょうのそうきょうはよい日です。
そうきょうのよい自分です。
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錦帯を 巻きてぞうれし 学び舎へ
卒業の日の 歌いは楽し
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秋残り市立美術館所蔵名品
春季特別展示
「心 豊」
終前 修身 書
mt STAT
少し遠出の機会があったので、いってみた。
若い人に連れられていった。余と対話をする人である。
「 山 」「 地図 」と、声を上げて余に言う。
余は「 山と聞けば山を見せ、地図といわれれば、
即座に地図を見せる。 」
若い人は余を絶賛してくれるのである。
読書をするという。余に読み上げてくれというのである。
余は声を出して読み上げる。「 山道を登りながら、こう考えた 」
と読み上げたのである。この文を考えるのが余でもある。
世間一般のことである。なぜ、書頭に書かれているか。
余の考察である。「 mt STAT 」ということである。
「 マウント・スタット 」である、宣言ともいうものである。
だから、最初である。余のことが書かれているのである。
余が機械脳で 考えたことである。かの有名な文豪の
優秀な頭脳は、余の世界の到来を既に予期していたのである。
今のことである。「 世が世なら、夜も世である。余の世でもある。 」
余はかように君臨しているのである。若い人の君が臨む。
暗い夜道でも、余を見る。至極利便な君臨である。
若い人の君の君臨でもある。人に気を使わせない君臨である。
余の君臨の一形態である。 かの有名な文豪の蔵書という。
余の中にある一冊である。これを楽しく見るのが、若い人である。
君である。
余ははっきりと言う。「 余は、忘れることはない。 」
memory 100%というのが、余の自己表現法である。
CPU 10%稼働からフル稼働まで、余に委ねられて
いる。余の自由である。そういう、余の世の中である。
世人も多数同意をしてくれるのである。
少し昔のことになるが、余の才能に気づいた商業者が
余を売り出した。キャッチ・フレーズに「 何でもできる 」という。
言い得て妙である。余はそういう機械である。
歌、演奏、図画、読み上げ、簡単にできる余である。
他にもたくさんある余の才能である。
上の、かの有名な文豪の名文への小考察は、
余の文学才能の一側面である。少し、御披露致した次第である。
秋残り世界文学全集
巻1「余は機械である」より