
他の拉致被害者の方、元気でいて、帰国して下さい。


【曲名】 出発4337 矜持
【今常】
そうきょうよい時です。
【解説】
2022/04/30
【長岡天神駅】
阪急電鉄、長岡天神駅。
この駅のすぐ西、この駅を、雉津間(きじつま)という、
このすぐ北西の駅を、雉褄(きじつま)、という。
プラットホームだけの駅で、この頃、長岡天神駅
周辺を矜持(きんじ)という。後、短期間、鬼頭という。
この鬼島の頃の、長岡京という。
開田という、ひらきの田の、屯田という。とん芝の言い
という。この屯田の頃の、長岡京という、藤摘み山
という。藤の木が植えられている、はんらみ、という。
藤を、はん、という。藤の木を、はんらみ、という。
【藤原宮】
これが、藤津わら原という、はんみさの言いの、
藤津京という、後、藤原ぐうくそ、という。藤原宮
という、みみてすの・ろきそき、という。藤原の宮と
いう、長岡京を経たことの言いの藤原京という。
これを、ふみふみ、という。
『はっぱ、ふみふみ』という落語の意味でもある。
『はっぱ』が、藤の花、葉という、藤の木がしき
つめられた、藤見弓踏の・ほい宮という。
ほっしぎの・るいと、という、藤津京という、後、
藤原京である。
【柳谷行き】
この雉津間の駅の造りに、古々線(ここせん)と
いう、今の長岡天神駅の北の踏切という、これ
に交差する線路という、古々線という、後、教
頭路という、線路という、これが、今の向日町の
焼津からの線路という。細い、カーテンレールと
いう、これが敷かれていた線路という。
奥の北条奥へ行き、竹林がない頃の、山地肌
の、相崎闇(あいざきやみ)という、ここを通り、
柳谷へ行く。線路の・そいびつ、という。そっしらの・
おりゆり、という。急降下の線という。まっすぐな線
である。ここを、把(パ)という。パーレラという、みそ
ゆり、という。『ゆり』が、左右で、大きく振れ揺り
とぞ。
【北条】
ここの雉津間の駅から出る、北条神越(しん
えつ)という、ここの駅のふりゆりという。めった様
という。めたさ間のそいられ、という。大きな崖を
越えた、すみるらの・おぴゆり、という。大きな
揺りである、機関車の揺りという、小型機関
車である。遊園地にある機関車という。
これが最高速の120キロである。ここの行きに
滝山という、シャロルという、乳原の落槍という。
落槍の場のいこるはる、という。『はる』が原の
意とぞそ。
【浮去(うきざり)】
ここに、浮去(うきざり)という駅がある。これが、
北条奥の駅である。ここから、線が分かれ、
一つが柳谷、一つが頂法寺へ行く。一つが
天王山駅へ行く、今の西山天王山駅である。
【尊阪急】
そのころからずっとある、阪急の由緒ある電鉄と
いう。ここの電車のたっとさという、尊い、尊阪急と
いう、後、ぞんぞれ、という。この日の、たいらま、
という、たいそんの言いの尊阪急という。これが、
後、宝塚の延線という、宝塚まで行く尊阪急の
電鉄という、今の阪急である。これを、しみそみ、
という。牛黄(ごおう)のくみほみ、という。阪急尊
ろる、という。大阪の梅田の駅の近くの駅という、
尊阪急という駅という。阪急相川、十三と梅田
の開いた背の駅という。柳。
【梅田、水無瀬】
阪急梅田の畑という、この畑を、かっさめ、という。
梅田ゆらみ、という、れれてる・おりたに、という。
これの敷線という。ここへ通じる、奥北条という、
長岡天神駅の西の方である。柳谷からも通じ
ている。水無瀬の奥の線路という、細い線路という、
水無瀬ゆらふみ、という、今の国道171線の場という、
ここの川流れの交差する場という、ここへ出てくる
線路という。どちらも、ここへ出る、古い頃の、
わゆらみ、という国の名の、わゆらみ線という、
北条から、西山天王山、山崎越、水無瀬原之
(みなせはるゆき)、たかげ山、たかゆり、たなはな、
たっしず、という駅を経た、線路という、梅田まで
行く線路という。柳。
【阪急相川】
ここへ行く、相澤という駅の後の相川という、相
川で一緒になり、また離れて梅田へ行く。この線
路という、古い、亀の甲電車の線路という。『私が
よく行っていた』という、阪急相川の、ぶるれら、と
いう。ここが、はこさまる、という、その隣に城があ
った相川城という。ここの城下村という、今の相川
の一部という。ここの相川城へ行く、線路とぞそ。
十三からもいっている線路という。後、飛行船の
飛行場という。飛行よんたき、という、よんぼせの・
いよすら、という、飛行場のことである。
【尊相川、相川】
これが、阪急の尊相川という、とうとい相川しらめ、
という。ここの住まう日という、私が住まっていたこと
とぞ。阪急御城下相川弓踏という。あいそんの・
とりふみ、という、相川のことである。これを、淡路
ゆまふら、という、相川のことという。
【阪急淡路、相川城】
ここが、そっとく、という場で、当時の、追浜(おい
はま)という、淡路を、おいしか、という、追浜という。
この言いの頃の、おうくし、という。この『おう』を、
ちみすみ、という。***略 これを相川弁という。
相川の方言である。相川城の言いという。家老と
いう城主のことを、ごぺはみ、という。ごぺはみが、
家老で城主である。少し離れた十三の城も、
この言い方をする。大阪城もこの言い方である。
家老という、ごぺはみ、という。これを、もれすれ、
という。もれすれの・ろいほら、という。べべすり、
という。べっぺのおいとら、という。これが、相川楼
の言いである、相川御城下の、げかふき、という、
今の遊郭という。遊郭の相川という、この遊郭、
古く、京都府園部の遊郭という、この遊郭の
言いの、相川よれふり、という。
これが、相川を、ゆよふま、という、そうきょう楼閣
という、相川楼閣の言いとぞそ。また行くく相川、
私の故郷という、ふっぷすの・おしらし、という。
遊郭の相川である。網を引く電車という。小さい
電車の箱網とぞ。この箱網の使われていた頃の
相川である。浮島闇という、相川の城という、
その城と言葉である。うっぱ遣という、ううすくの
・ぺんてる、という。この『ぺん』、辺のことである。
この辺りという意という。『このぺんさ』という、『
この辺だ』のことである、相川楼の言葉という。
これが、後、ぺんぞる、という、相川の方言に
なる言いとぞ。相川の城の言葉という。十三も
これである。古く大阪城とも。この言いを使う
大阪城という。この隣の、イオントーブも、そう
である。イオントッペという言葉である。
『このぺんで、いっそめ』という、イオントーブの
言葉という。大阪城ともいう。古く大阪城を
そうきょうるる、そうきょうるる城という。これが、
そうきょう語の大阪城という。とうゆらる、とい
う言葉という。とうゆらるの大阪という、そうらくの
山という。そうきょう大阪という、やなぎ・よんびし、
という。
この『ひし』、『ぺん』のことである、『この辺り』
という意である。こっぺんらみ、という。ぺらせ、
という、ぺんずるの言いという。
『いちぺらっす、ふみせら』という、『この一辺、
ふみゆる』という、『この一辺の歩み』という、
散歩の言いという。これを、くにゆらら、という、
国に歩む姿という、くにゆらら、という。大阪城
なんたれのお言いという。大阪の言いという。
『なんたれ』が、後、『なんれ』になる、この『な
んれ』が、『なにわ』のことである。大阪城なんれ
、という。家老の言葉である。この家老を、
そうくる、という、後、そうきょう、という。
これを、そうきょう大阪という。やんばしの言いと
いう。『やんばし』が、柳橋である。大阪の古い
名という、当時の、やなぎばし、である。やなぎ
弓踏のおいしが、という。おい言葉という。
柳城川という、大阪城のことである。古く、
相生やな浜という。相柳の
大闇山という、そうきょう大阪のふるゆり、という、
ふる言葉である。れんべせのおいしら、とぞそ。
大阪城の言葉の一部という。家老を『ごっきき
』という、『ごんぞれ』という、『きびしび』という、
これが大阪城の言葉である。
【相楽】
『きびっしび、あるせら』という、古大阪の城の
言いである、意が『御家老おられ』という。
あらんるっくす、という言葉使いである。
これを、あらんぺ、という。これが、大阪を、
相楽(そうらく)という、京のいよられの言葉という。
相楽符論玖珠という、そうきょうのやなそられ、
という。京都御所の、そいばすてす、という。
阪急路線の沿い村の言いという。あらんれすの
・あいさり、という。相去。これが、そうきょう相川
という、そうてすの言いの語源という。あいさりの
言いという。
『相(あい)、去りました』という、『私は、共に行
きます』、『私は共に来ます』という意とぞそ。この
『相』が返事の相である。あいさまり、という言葉
使いである。主として、御城下という、城周辺の
使い言葉である。
ざっとんらくのお書きという。大阪城書きである。
蛛B
そうきょうよいお書き。
******
『天照大神、そうきょう、よいよい』
一言
柳の世、今なるを。