2017年09月20日

卒業1892・京都船旅792古譜662大原練習282天の下97ビズススのムム(壮強太陽):イカスミ柳

そうきょうの思い出し:日能野鷹世
字(あざ)のほうぼうで、腹を横に書く。:日山吹 柳
かいきょうのそうきょうはよい時です。:日スモモどくだみ
そうきょうのよい自分です。:日山吹 餡
天の下、山拝み。つねづね。:日紙祖川劣る

【曲名】卒業1892京都船旅792古譜662大原練習282天の下97ビズススのムム(壮強太陽)(鳴恭川世讃歌讃歌)
【創曲】2017/09/20柳晴創曲、熊 釜造 造詞、丹波 花由 監修備州 ソル(秋残り市在)
【拍子】
【種類】ジャズ時雨
【演奏】往来歓楽家、火打石愛好会の皆様
    仮名小文字ローマ字混ざりあえ
【場所】4戦回演、秋残り劇場
【歌詞】蒼郷 (紅世赤夜章)
ふみはみやらやらゆ うつうつれれれれ
おりさんし ふむれれれれ
みどらららられ ビッ、ビッ、ビズ
ララスス ユススス ムムレブレ
とおいや おにかせらみ るるるる
ははれれるるるる フリーラフリランス
せっ つ ペッペラペラララ
うるるるららら
 
 狐の天気予報。〇r2017/09/22
 狐と。 過去をとく、という。
 場所、そ。 狐言:こって。
 狐晴れを、柳世葉とぞ。 
 桃晴れごぎつね  
   ((明日晴れたなら行こう、大原砂山))   
【解説】君、探敵中、情景。 破風之談
柳太陽
------日出葦談笑聴
明日晴れたなら行こう、大原砂山  
品花雲しなよる〜〜柳雲〜〜山吹雲〜〜桃雲〜〜銀杏雲〜〜朴ノ木雲
Be in Ideal town.
【長丘】
 京都に長岡というとこがある。その手前の大原を西津という。凶
というた京の頃である。今の長岡隣の向こうの西の原を大原といい、
大原野という。その山の横に磯という、れけという、みぶらむ、という、
ほねのや、という日の山のお入りという。そこの日の絵という。
 これを、まぶらむ、という。めめす山のお絵という。ふむよむの
けけらむ、という。れを、めゆるひびりり、という。『大原越えて
山越えて』という。めむ、という。ここを、めすゆす、という。
てめのおれ、という。めるらるゆゆゆゆ、とぞ。
 よめ山のお絵という。ここに、れす、ということという。
れす、を、べす、という。これを、レベルゥという。やもよもの
おいす、という。この山のいきに、れ、をいう。めらのゆ、という。
ゆらをめせという。めるふむのゆっき、という。これをゆきという。
ゆきを行くの古語という。これを、かむれる、という。せれのお絵
という。ねめれむ、という。めゆるはなふら、という。
 こりをくくという。こりをこれとぞ。こりの言いが出るはなる
という、えばの山のお書きという。ははらるれれよという。
ひで山のお絵、これを、ふるれる、という。この書きのこりをいう。
こりのややとぞ。とそえそという。めてゆてのゆるふるという。
これをこりという花のおことという。花の山の鼻という。鼻をゆて
という。これをこり鼻という。これっぱなという。これ鼻のおよという。
これをめるてとそ。めすゆすのゆてという。めるれるよよるせめす、
こりの絵のやおという。やおをせとそ。せという。これをめるふという。
めるれるの言いという。壬生やらあほるふふる、という。
壬生ゆら、ともいう、ここの場のポコという。ポコ場という。
ここのほうれるである。べすという。れすという。
京大原野のれくという。『そうれす』という。『そうべす』という。
どちらも『そうです』の意とそ。これをえりかるやという。
 りかろすという。りみろのペルレルという。ペッセという。
ぺつふむのくゆれるという。くゆくゆともいう。めるせれれゆら、
という。ここやら、おりるる、るるふる、れせるせ、とそ。
きみよてままら、を、ふする、という。めゆる鼻という。
これを花という。鼻花のゆきふりという。こと山のお書きとそ。
 『ゆっくれる』という。『ゆうくれる』という。この言いの
同様義をいう。これを同義という。夕方の山のお絵という。
 ひでら山におしよす、という。おしやすの意である。
後という、京都の『おしやす』になる。『これをする』の
軽い勧めのこととそ。『おしべし』という。べすの言いで
ある。『おしれし』という。れすの言いである。
これを『だす』という。ですをいう。『そうだす』という。
『そうです』の意である。長岡宮という。ここの言いとそ。
古く山をとる、とそ。『山を見る』ことを『山をとる』という。
ここの宮の言葉である。ナッピルレーレという。ナビルゥはっぱ
という。はみやむのおけれれ、という。これを、おけら、という。
おけら宮という。おけふりのふりよる、という。壬生の
せってら、ことをいう。壬生という。壬生の宮という。
壬生がきょという時に、この言いの頃とそ。これを巨視という。
後、はゆれる、という。めれすれのおっきく、という。
このやの言いという。おっきくれーれ、という。めてゆせという。
おいその山のお絵という。磯やらふるゆるれれふるすすゆ、
これをめるという。あおよそのいすれす、という。『れす』が
先ほどの『れす』である。『これれす』という。『これです』の
意とそ。これをとその言いという。れすの使いのこととそ。
京都れすという。言葉のれすの意である。京都べすという。
京都の言いである。地方でもこれを使う話という。
『そうだ』という。京都でもこの『だ』を使う。東京という代表
である。『そうど』という。ひめよらの言葉という。代表が姫路
である。『そうぞ』ともいう。れをれめる意という。
れっするともいう。言葉の列をいう。きょうを始めるという。
これを都という。都を作るという。自分のいる所を都という。
 これがみこの話である。これを、みのゆという。みのゆりらという。
めせゆせという。みが自分である意とそ。みこがみのやのみぶ、
という。みこみぶ、という。みれる山という。山をれくという。
れくれぇしょんという。この『れく』をやという。やれぇしょん
という。やっくすの言葉という。やく花のいやという。『や』が
『いや』という意である。いやすすむとそ。やすすむとも。
やざかえという、いやざかえという。さかゆきのおことという。
やむふるのふるれるとそ。ヤッセルルゥラァという。
ヤムセルともいう。るるするのゆゆすてという。
これを、こりれる、という。こりおりのここす、という。
南(なん)の山のお書きという。
 酒に花をいう。酒を花という。これを、花ゆれぜ、という。
言葉をたっとぶをいう。たっとの山という。てゆすという。
みるれるのゆくす、という。これを、ゆっきす、という。
この促音の言いをやまとらという。とらの言いという。
虎という動物のことの言いのややとそ。山虎のやまとらである。
大和朝ともいう。日本の大和朝廷とそ。この頃の言いとそ。
大和朝廷の文とこの文である。
 『やっとこ』という道具をいう。もの鋏である。この鋏を
作る話という。ゆゆれる山のお絵という。鋳型から鉄を流す
話の出とそ。鋳型を山という。ベルレルのユッスムという。
ゆるれるの話という。これをみたやらという。やみゆのこととそ。
この『やみゆ』を『ゆ』という。今に使わる製鉄業の『ゆ』と
いう言葉とそ。鉄を流す状態の言いとそ。ゆという大和朝廷の
やっとこである。これをやっとこという。『これをしておこう』
という。これをする話である。『行くとこ』とそ。
『行く所である。』『行くとこやった』という。
 これをベレルという。ベルレルとも。ベルレマという。
ベッセマという。ベルスともとそ。同意である。
みぶれるの山という。
 『ゆっきす』という。『ゆきす』という。同意である。
((不同意の場合もある、その場による))
『ゆっきす』を大和朝という。『ゆーきす』という、これが
奈良のあすれすという。奈良のあす言いという。れすらすの山という。
れすに変わったらすという。れすですを、れすらすとそ。
これを、ゆいやら、という。『そうらす』という。『そうです』
である。これを朗落という。朗落落としとも。これを、音に期すという。
16分音符の部分である。長丘かゆれる、という。ナッピルレーレという。
めすゆすの言いとそ。エッペルローレーのおいい、という。
エサンテともいう。ラレッスンスという。山ふらのおっきく、という。
おきくという。これをラ切りという。ラローの山という。
後、ラになる。西欧語のラである。冠詞という。ラ・ローという。
ラムのかんてら、という。かんゆるのけけくけ、とそ。
 冠語という。ミーラーという。ミーを私という。ミーラーも
私である。『ミーラーをー行く』という。『を』が今の『は(wa)』
である。『を』伸ばす言いとそ。これを、おみふり、という。
『をー行け』という。おーいけ通りという。おいけ通りである。
この行きをおー行きという。祭りの行列の行進という今という。
この『おー』を王(きみ)という。きみ(王)の行進という。
 ラ・マルセーという。フランスの歌という。マルがやたの意で
ある。『やったー』と言えばよくわかる話である。ラ・マルセー
という、万歳ともいう。『勝った』ともいうものである。
 ベル・ブラッセーという。この『ベル』を『よいという意とそ。
ベルラルという。みんぶるのゆすらす、という。『らす』は『
です』である。ゆんめすのおいい、という。
 後、『ベル』を『ブーザラー』という。『ブーメル』という。
ぶーらくという、ぶらくという。部落の一意義である。
今は、この意味では使わない。意味が切られた今の言葉である。
これを部落切りという。言葉をいう。今は、部族およびその
地を部落という。大和朝の部落という。大和朝で意味が切られている
こととそ。これを『ブッソ』という言葉の造りである。ブッソ切り
という。仏素という、宗教がない頃である。今の仏教の『仏』では
ない話という。『仏をきった』という言いの一意義という。
これも今では使わない。言えば、他の意味になる、言うた人に聞く
ことになる。大和朝廷の言葉が『仏を切った』という。どういう意味か。
大和朝廷である日の朝廷である日のとよここ、という。文官の言い
とそ。この『切った』が、言葉をいう。上文の意味切りである。
これを仏素という。
 フランスの『ラ』が、それである。フランス掛けの山という。
『ラ』が『ラ・マルセー』の意味を切って使われたこととそ。
駄作者の作である。上文である。これを作詞という。新しい言葉という
駄作の策士とそ。下手作はこのように書く話という。
 全文、だ堕落作である。堕落上げという。上げ下げ列の文である。
 都を作るという洞口である。『ホラホラホラホラというこの言いを
洞口言いとそ。ホラ口である。大和朝廷は、私の家の前である、その朝
ともいう。これを大和朝庭という。蒲鉾道の山である。便宜上、大和朝
という。これを大和朝廷という、私家本という、本本である。
本書である。歴史を覆さないのである。私の革命はこういう革命である。
サングラス朝である。ソウレス文という。ソウダレスという作家名とも、
駄作者である。ソウデスデスの名前である。これをソールという。
ソルともいう。ソッルともいう。名前である。備州ソルという監修の下
という。かいくぐった長丘落としである。ルルルという。名曲では使う
のである、真似をした駄作である。これを大和真似といっておく
のである。
 私の外国語はそういう外国語である。真似より続く学びで卒は続く話
である。
 『本朝は、唐へ官を派遣する』という私家である。現今政府はこんな
ことはできないのである。『本朝は、できます』という私家である。
どこまでも洞口の小さな家である。ホラ作話をいう。
 大和朝廷幕府官を監修という。平安朝でも監修という。これを、
幕府の修令という。明るくなった日には陋習という。陋習を守る
という話である。サングラス朝の本監のいうことである。『いとも
安んじて、習い陋々である。』 真似の造りである。たくさん真似た
話という。『おおおお』という。風の形容である。そのように吹く
ハーモニカの洞口という。洞口楽器という。大きな口になるという
楽器である。これを落としという。観衆落としという落とし方である。
『これは、素晴らしい真似である。』 ダレレスカという。
レスモニーの言葉という。平安朝を『レス』という。『モニー』は
朝である。大和から飛鳥へかかる日の五条とぞ。明るい五条である。
これを御花序の音声門という。御声門とそ。御条の五条の光、ありがたき
門である。平安朝御門はこういう。みかどを履いて清めた話である。
これをていちょうという。庭の朝という。洞口亭三頂という。
三省の語元である。ダレレスカの山頂である。
 古く、高い山をいう。ダレッソン・ダーレルという。ここの山の名で
ある。大原山という、ヨーロッパの高い山である。ダレレスカの山、
大笑いとそ。洞口のめでとそ。K2という山である。マッターホルン
という。ここを唐という。唐門山という。問う門ともいう。
大和朝廷の唐である。ナカシナという。シナの中という。アルレルの
おゆれ、という。アルプスである。西洋をアルという。アルタイ山
という。アッセルの山とそ。アッセル・ブラスーという。洞口が
入り口である。洞口入道という。入り口を入道とそ。
 雲が見て、『けけら』と笑った話とそ。雲笑いの入道とそ。
雲笑みとも。けけら道という。登山道をいう。
 洞口の登山は蒲鉾である。食官の意味とそ。四柱推命のじきという。
そういう話である。山をおろがむ話とそ。大和朝廷人の監修の習慣
である。古代人の話である。新しいことをいう。暗くなった頃、
サングラスはいらん話とそ。明治お春の日暮れ眼鏡という。
朝令暮改のこととそ。サングラスのかけはずしである。
これを明解という。明(ミン)の頃の話という。
 大和朝の頃の中国をシナという。シヌワーというフランス
語である。ナカシヌはナカシナの中支という。ヨーロッパの
話である。ここを、フラズルという。後、フラッセル、フラゼル
とそ。フスのや、とそ。ふすのやである。襖に描かれた絵とそ。
フランス山の絵とそ。これを、ふら目という。洞口と言えば、
目をふら目という。言葉の劣とそ。耳をるっくすという。るくれく
とも。るくれるみ、とも。頬をそーるという。額をはむという。
はれ、とも。眉をびれという。口元のふくという。ふく山のお書き
という。これをはーもという。はもとの口とそ。はーも列の山
という。歯をようという。これの活をいう。活用した入道という。
口が入道である。双ぶほ、という。これを、双頬という。
今の山のお書きという。双頬山という額平(ひたいだいら)の
歯名(はな)という。紫明の山お書きという。明るいはるくる、
という。これを、はっせ、という。ちょうの山の山のお書き
という。朝礼暮改というポッカリ雲の名である。朝礼暮雲
という。蝶々の浮かぶ飛びという。これを、あさくれのあそん、
という。朝臣の語の造りとそ。後に、平で、平氏の紋という。
これで、額を山額という。光る額という。おでこという。
『おでこ』の『こ』は太陽である。これを太陽子という。
小さい子をきみ(王)という。太陽王という。フランスの
ラ・マルラルである、マルセルとも。顔を丸で書く小さい子の
絵とそ。これを、おかお、という。おかおうの山という。
丘王という。これを子とそ。孔子のみつごという。
孔子の『子』をいう。ナカシのナカヌという。なかしなという。
中支の山という。西王という。西欧とも。これをなかしなのせ、という。
ヨーロッパをナカシナという言いとそ。『子』がかけもった話という。
K2をご覧という。洞穴二つの話とそ。立派な鼻という。りっぱな、
とそ。立ち花ともいう。けつの穴をりすという。尻の穴である。
りす穴という。K1入、という。ケーゼルという。これを、コー、
という。コレルル、レレル、ラという。この『ラ』がらっこという。
一番終わりをらっこという。らっこ穴の言いとそ。尻穴のことである。
 ひらがなの点を、りっ、という。りってん、という。山だらの
おふり、という。山だら点という。これを、せま、という。
れれほのてつる、という。『れれほ』は『ひらがな』の意とそ。
れれれ書きというひらがな書きのことである。
 『むらさきだちたる』硯書きという。紫の筆という。
紫筆という、これを私の筆という。紫式真似をもという。
も真似の筆とそ。紫式部分である。『いずれのみよのおほんときか』
という紫式真似という。『うつりにけら、ひたすらに』、電子京に
学ぶをいう。ナカシナの長丘とそ。長丘の山ヨーロッパからロシアに
およんだという。およよが丘という。ここの闇をきやみという。
きやみ山のお書きという。

レッテルニヒ、これとそ。劣家損という。緑ヶ丘の山、ここなるを。
緑ヶ丘記。全文藤原の宮の書きとそ。藤原という長丘の古い呼びと
いう。これを古呼という。ココという。ようろうのここ山とそ。
ようろっぱヶ原という、洞口探して入る話である。緑髪の鬼が
待つこととそ。人鬼という。人食いの鬼が待つその口を序という。
これを序記という。記鬼のお書きという。大和暮廷の話という。
 大和朝暮廷という、両廷ありる話という。夜の記紀を
『よりそめ』という。『いずれのよの、おくらい、おときにか』
というききせまる物である。赤い夜という。赤式部という。
あかいよ、という、赤夜である。こを赤暮れという。
おかくれ強道という。赤母神という道祖神である。髪を鬼という、
鬼子母神という。これを陣という、幕府である。この幕僚を鬼母
という。後、喜墓という。墓造りの真似という。鬼ケ夜(おにがよ)
という。きみがよの前夜である。幕僚羅列という。幕末を見る
という。これを、幕未、という。これがくる、という。
これ隠る話か、とそ。これが来る、とそ。繰りの語元である。
未来という。これを来未とそ。来未の意味という。鬼来未という。
鬼子母神という。鬼来未という背追う子という。小さい子を未という。
未来は先という。緑子の赤子とそ。緑鬼と赤鬼という。西紀という。
世紀は今という、世の鬼である。これを待夢という。待夢録という。
鬼が待つ夢入り口のセムという。タイムの古語である。
セームの意切りという。タムという切りとそ。セームの意味が
なくなり同意になったという。タイムのセイムという。
タセイムという。多勢に無勢とそ。言葉の尾に、勢う墓とそ。
これを、おに墓という。喜墓という。古く鬼墓という。
四柱推命の真似という。鬼籍の話という。鬼籍をタムという。
タムタムタムという。緩い張りのタムの楽器という。
そういう音がするタンベックという。タム張りの墓楽という。
これを酒池という。酒池肉林という。これを、林檎の木という。
酒池が池である朱い地である林檎のほく、という。
アップル・ツリーという。アップル・ツリーで、あっ・こわっ
という。平地に緑児が立っている話という。手に持つ口のくわえ
という。これを、アップル・リーという。すももをりとそ。
すももをりずたらという。この『たら』をいう。『そうたら』
とそ。『そうだ』である意とそ。平地家の言いである。
『そうだろ』という。『そうたら』の『そうだろ』という。
これを両方言う、『そうたら』と『そうだろ』で『そうる』とそ。
『小林る』という、『小林です』の意とそ。『山田る』、『山田
です』の意。これを、ぼ言いという。ぼの言い方である。
大和暮廷の監制の言いとも。日暮れを鬼子(おにこ)とそ。
鬼が中へ入ってくるとそ。これを、とそ鬼、という。
鬼山のおらく、という。鬼がルネ、という。鬼が寝るという。
鬼がルクという。鬼が来るという。これを、隠れ見という。
『けった』という言いとそ。子供の遊びのかくれんぼとそ。
鬼を見つけるはる、という。これを、けりその言いとそ。
鬼の間の山ともいう。危険を避ける、鬼語という。
季語の山という。俳句の武道という。季語を使う俳句をいう。
これを葡萄句という。俳句のことである。子供の安全をいう。
五七五という。奇数のめでをいう。裏隠れの安全という。
これを見つけ出す、葡萄句を、苦(にが)い人という。
若いを苦いという。若人を苦人という。和解の意味に
苦いがある。『いずれの、おほんときにか』と尋ねたら、
『おほんきと』とそ。言葉の順を逆にする子供の言葉遊びの
真似という。これが赤子式である。子赤入という。ハッペラ・
バップという。バオバブの木という期という。
 キトサンの造りとそ。薬の造りである。林檎の薬という。
林檎がのこをいう。のこぎりとそ。のこぎりの楽器という。
それをすくという。すーれる、ともいう。のこぎりの山とそ。
鬼の切楽という。これを季楽という。五七の楽とそ。
 これを、俳楽という。楽器ののこぎりに合わせて俳句を
詠すをいう。この音を出す、半音の和音とそ。シとドの和音
とそ。ミとファもある。他、色々。のこぎり音という。
 こをわ、鬼の夜来という。夜来半という。半音である。
セブンス・コードという。メージャー・セブンスとそ。
これを七目音という。これらのセブンスを目のお方という。
大和なでおこ、という。七歳児の子の声をペルという。
ベベンスという。七色の声という。キィーッと下げる話とそ。
これがジャズという。ジャズラツという。ジャズいっと、
という。jazz itという英語の話という。七の意がある。
この七を半分という。3拍半という。これをサードろくという。
サードの輪という。三輪車ののりうとそ。
和という和の句である。俳句を、五七五で半分で切る、
五と三半という。ごみ山という。五拍と三拍半という
歌の律を夜半の矢という。八拍のことを矢律という。
これを半分にする四拍という。しっぱらという、音楽の律
をいう。これを鬼音という。きおんしっぱく、という。
きおんしはくである。今の四拍子をいう。鬼の音という。
これの、鬼拍をリットという。リットミット、リトミト
という。みんぶすのかれれら、という。かれらの律という。
かれらでという。かれんみら、という。かれんみ、ともいう。
四拍をかれんという。かれん楽をいう。かれんび、という。
これを、ビタス、という。ビタミタのゆるゆる、という。
今をみむという。みんのたか、とそ。今をみんという。
りりふのお、とそ。四拍がかれんをいう。かれらるれれ、
かれらるれそ、とそ。髪拍ともいう。これをはっぱくという。
八拍で、半分をいう。四拍をはちにとる、エイトビートという。
エイピーという。えいたかという。エイリラという。エイはる、
ともいう。エイトビーのゆりやら、ゆいりらという。
みぶすみの丘楽という。求楽の士である。苦い楽という。
にゃー楽という。若い人の楽とそ。若いをにゃーという。
若王路・・・にゃくおうじ、という。にゃくおう(若おう)の
学という。これを、けんけんがくがく、という。
がくがくの言い元である。にゃくが元である。
後、見学という。見学が語元である。
 音楽より割り出し、鬼を呼び、割った語元解である。
足し引きのロットセーという。朗楽(学)割り元、ごもる
くゆふ、という。エイト論これなるを。

【sotu1892】
 歌はフリーランスという。縄跳びの歌である。語も縄跳びに
使う語である。れた列の言葉である。すすゆという、進むの意
である。むーむらべという地の山歌とも。みすらすの山である。
ミッテの山の書きとそ。
 帰暮で、簿記の記帳という大和朝暮廷の監理である。
  繰京のお書き 

【南徳】
 京の千代という。千代の原の東という。今の9号線千代原口東である。
ここを南徳という。めつるやや、とそ。これを、もず(百舌)という。
百舌という場所である。後、物集女(もずめ)という。ここを、さいなん
(西南)という。今も西南という。西をさいという。西是(さいぜ)とも。
今山の絵をいう。この絵を江という。絵に描かれた江でもある。
 古くに水があったをいう。めれという。そんみという。てすふくの
ろらろらという。これの言いの場をサイという。代表がサイである、
西という。催ともいう。みっそみという。これをふんまるという。
はくれるという。めめ山のおいそ、とそ。物集女街道という今の街道を
めめ行きという通りをいう。後、めめ行き通りという。古くの一時代である。
これを、めめもも、という。この『もも』が百舌という。目の下の通り
という。えぶれるのくっさむという。くされるという。草の深いをいう。
この『深い』を『ふくい』という。今もこれをいう。ふくのという。
深野という表記とそ。大坂山の絵という。ふくのなん、という。
これをふくのみなみとそ。ふくみなみという。深野南という。
ここの『野』の、のを『ぬる』という。ふくぬくという。『ぬる』を
『ぬく』という。これを『ふくのみなみ』というひぃに、『ふくぬき』と
呼ぶ、言葉の使いをいう。めてゆす、という、言葉の使いという。
 この言葉の使いを『ふってく』という。これを『ふふれ』という。
『ふりする』ともいう。ここを、深(ふく)で掛かった地名とそ。
言葉がにかよる話とそ。深野南と南徳とが、にたような言葉を使うこととそ。
れてのわら、という。れむのやお、とそ。めめの言いという。
『め』を『ぬほ』という。これを『むほ』ともいう。めのことをとそ。
『むほのぬ』に、南というれての方角をいう。南をれてという。
西に向かって左をいう。これを南方(みなみかた)の方角示しという。
れてという左手のことを方角にいう。一般にれての方角という。
南であることとそ。また、東に向かえば北である。れて方ともいう。
れての左に、右手をみっつという。これをみっつてという。
 るむれるのおるる、とそ。言い方である。南徳を深見(ふくみ)という。
この時に、深いの方角をいう。東と言えば、西にある場合とそ。
自分が西にあれば、南徳を東という、東の方という。今も同じである言い
という。これをみっとという。みつれまという。言葉の使いとそ。
これを、むうら、という。むうむうともいう。南徳やっきという。
むうむう言いの村瀬という。ここの村をゆうとそ。邑という。
これをくるるという。文を繰るひぃに、ここの人の送りに、そうという。
人を送る送別のひの、そうという。このそうをゆうという。
 ゆうそうと、言葉を補うことの出の場とそ。南徳の出である。
宮の駅という。駅間のえつらつという。南徳の山のお書きという。
今もこの南徳に電車が走っている。桂の一般名称である。古く南徳と
いっていた頃のこととそ。桂で上桂(かみがつら)という。この『かみ』が
京都のかみでもある。北を表す言葉とそ。この『北』に、なんみという。
なんみ言葉という。南をみた北という。これを、そんみ、という。
北を照らし合わせて、そんみ言いをすることとそ。これで、南徳という。
南を徳という、その古い頃とそ。徳方という南をいう。徳方を徳るとそ。
徳る方という。徳山の言いとそ。西山を徳山という替え言葉という。
これが東るという。東の方を東(とう)という。これを徳法という。
言葉の使いの法という。後、方の法という。今の方法の言葉の造りの
解きという。言葉を説いていく話という。ペンという。これを、北に
いう。北という。北から来た方を『きたの方角』という。南から来た方を
なんみやという。これの使いの宮をナンという。ナンを南という話という。
なんぐう(南宮)という。古くの南徳である。方角をみやという。ぐうという。
きゅうとも。これを、宮言いという。『ひぃに』という。『時に、節に』
という意とそ。言ったひぃに、行った時に、という。今は、時と使う。
ひぃにとは言わない話とそ。使えば意を知らすという。知らし言葉という。
『ひぃ』の言葉という。この知らし言葉という言葉は何時からか。
これを、なんじ、という。何時の方という。れが、言葉の方角である。
南の方の言葉や、という。なんじを南時という。これが、南の南朝という。
南の朝を、みな、という。ほくれつという言葉の言いという。
みなという、南で朝という。時方の言いという。今の言葉のできがそうである。
南方ひの話という。この『ひ』が陽である時という。言葉の使われをいう。
言葉の使われた場が自分のいる場である。これを南点の身という。なんみという
、替えて自分の意という。これを、身の言いとそ。『なんみは行きます』
という。深野南の言葉である。『私は行きます』の意である。京の千代の
言いでもある。これを、深見言い(ふかみ言い、ふくみ言い、深身)、
含んだ言いとそ。ふくみの言いという。含む意という。深いの意である。
これを深海(しんかい)の言いという。
 この場が、海の用語を陸地に充てて使う場所である。大坂深野もそうである。
なんみという言葉がこれをいう。なんみが深い場所である。山深い里ともいう。
この『山深いの深い』が海の深いになる。近くに街道という。この街道を
海道に表記する。海山道という一般名詞である。海山道の言葉が今も残る
御所海道という。これを、『ごぞ』という。一般にごしょかいどうという。
海の話で始まる場の山を『うなみ』という。うなみ言いという。
これが、山原を津という、うなみゆという。山を矢(や)という。
これをさんしつ(山矢)という。ここの場を、是(ぜ)という。
丁寧におぜとそ。ごぜとそ。御是という。場所を是という。
これを、文の場に充てた言いの書きを、国是にみる。社是にみる。
この『みる』の使いがなんみの使いである。『なんみ、ぜをいう、
きたほみ』という。北朝のことをいう。北であって、朝である。
これを、時報南是という。私の時と場を知らせた時報の言いに、
時報は12時という。8時という。どこの場であるか。
これを、場の意味が切ってある時報の言葉とそ。時だけのことを時報という。
これを、なんみの切りという。なんみが何時である。なんどきという。
なんじという。『今、なんどきや』という。『なんじや』という。
この『や』が、なんみ切られた『や』である。問いの言葉である。
一般に『か』と問う言葉である。これが、ムームー言いのれるか、とそ。
ムームーという言葉の意である。
 簿記という。古く記帳の簿という。簿記の語源である。なんみやの記
という。なんみやを簿の宮という。簿宮という。大阪の深野南という。
京の千代という。他に、水中の宮という。全国にたくさんある宮で簿宮
という。水の中の鳥居をいう。その宮を簿宮という。古く薄暮れという。
はくぼみやという。これを、白宮という。水の中の宮のことである。
 暮れ宮ともいう。薄暮が、これである。白夜という。白暮とも。
はくやの白夜宮とも。これを、びゃくや、という。はくをびゃくという。
めるれるの言いという。
 びゃくせまとそ。白夜の狭方という。これを東に利用した、狭法という。
東をせま、きょう(狭)という。南徳の東が京都である。これを、みやびら、
という。みやびらの沖山という。言葉の言いを山という。これを山師という。
山師の言いである。山紫水明の言いの説明とそ。師が頂をいう。頂の意味で
ある。紫明けの山という。いずみの山ふみ、という。自分がいでた時、
山をみるとそ。その時が水明である。この解釈が、山の2用語に海の
用語を使う名残りという話とそ。
 きょうとを狭いという南徳の大原である。北のほうが北山という。
南が水無瀬という。東が今の桂東である。西は西山麓である。これを、
大南徳という。徳川という川が流れていた頃の桂の千代という場所とそ。
大徳川のお書きという。U字谷の川とも。東が少し高くなっていた場所とそ。
とその意味がこれでもある。場所の意味がなだらかな麓である。
とそ原という。今では使われない、一般名詞である。
 U字谷の原をとそという。川が流れ添うこととそ。
 とそ切りでU字谷は、両端と片端とある。どちらも切れているU字谷を
いう。どこかで切れる谷である。かれ谷という。古くガラという。
ガレ谷ともいう。とそである。とそ切りを地名という一般の地名である。
とそ地という。切りに使う場合もある。正月のとそとそ。正月をとそ月
という。これを転用の使いという。U字谷という地理学上の言いとそ。
おとそという。おとの山のお書きという。本書とそ。『だ』の意味である。
『である』という意とも。これを、なんみ言いで、ロラという。
『そうろら』の意味でもある。『なんみそうろう』という。なんみの
そうろらである。返って、『そうだろう』という意味に使う場合とも。
『そうらろ』ともいう。『そうら、そうら』という掛け声がそうである。
南の宮の掛け声とそ。とそ掛け返りという。転用を神輿の返りという。
返りの地点をとそという。
 『よっちゃ、よって、よっちゃ、よって』という、これを受けて
『ソウララ』という。『よっちゃ、よって、よっちゃ、よって、
そうら、そうら、そうら、そうら』という。神輿担ぎの言葉である。
『そうれ』という転用である。
 『そうらよって、そうらょって、びっちょはって、ぬー』という
備州ソルという掛け声の一種である。びしょ濡れの語元である。
なんみやも、これやる掛けという、掛け声のことをいう。
『むー、むー、むー、むー』という、『ぬーぬーぬーぬー』とも
いう掛け声は、やっさかレルラー、にゃく掛け(若掛け)という。
いずれも坂がかかり水が掛かる。やっさかという、やさかという。
坂を上るのに使う掛け声という。
 『にゃっき、にゃっき、にゃっき、にゃっき』という。
これをにゃきそという掛け声である。ダンソン・ブレルという。
そのように出てくるダンサーである。ダンツォン・カーレーという。
山の段差のこととも。

付け
【sotu1891、1892】
音楽では、4分音符付点八分休みの16分始まりという。前歌
(sotu1891)の31小節目のギターのこと。少し律が変わりはっきり
ギターが聞こえる、惹起入れという。にょきにゃきという。
ギターの得意面という。
 平家のにゃあにゃあ掛けという。『にゃあにゃあ我は・・・』
とそ。『にゃあ』という掛け声である。
 ギターの山の北面流である。にゃあ流れという。U字谷の流れである。
 北面流ギターという。来た(北)のことをギタと言うた平家である。
にゃくそん(若村)という古くの惹村(じゃくそん)である。
これをソンミ弾きという楽器の弾きとそ。平家落としともいう、
現代琵琶のキターである。北村楽という。北邑楽とも。
北を来という。来邑らいんという。邑来ともいう。
単に邑引きという。(ゆうびき、むらひき。)
ラインライトのギターという。この表現を、駄作語りという。
オーバーという大原の大場で弾く人という。洞口語りの転用である。
じゃくそん(若村)で、マー行けるわー、とそ。
私は弾けない人である。オーバーな文のドライブである。
点落としの清盛さんの真似である。天を落としたという清盛の出世
とそ。とぞ点(とぞ天)落としという。とその話とそ。
31小節だけを律で繰り返せば、縄跳びになる。
『にょっくにょっくにょっくにょっく』という律とそ。
両端を二人が持つ、その時の入りの人への掛けである。
三人目が入る時とそ。
鬼入り縄跳びという。足に縄が掛かれば『ハレマー』という。
鬼はじらいの繰りけ、とそ。邪気入り、という。
オーバードライブ・キター文、これとそ。

 
ソウキョウ 1817/06/15つつづゆるゆ(ほそす、とも) 
900三条川原,100四条の森,1400静小島,1800五条川家
京都府凶都上空くくく

      秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』
       蒼郷 鳴恭川世讃歌 の項     
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物
       
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
秋残り市立美術館秋期展示
『古譜662大原練習282天の下97ビズススのムム(壮強太陽)』          
馮飛菊 画書家判 て、ごという字。
秋残り市、凡人倶楽部所属、凡(ぼん) 


beige brown

    著者@350上巣真芯、植え住まし
        UESUMASi W.E.州 Machine  
-----------------------------------------------------        
 仮想店 出品 ID:KoH'yosi-66527
     画商『加端』名画専門
     豪華額縁付 2000円ヤナギ
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***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
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ブログでの団体名、個人名、他名称などは、
全て、仮想です。実在とは、無関係です。
楽譜の作曲者名、作詞者名等はもちろん、私が
勝手につけた名前で、ええ加減に書いてあります。
同じ名前の方がおられましても、その方とは、まったく
関係はありません。実際の作詞作曲者は、私、駄作者の
秋残り、本ブログ著者小林壱裕です。
記事は架空です。著者@350,634
Notice;writer says;
Names are virtual on this article.
Matters are not real.
posted by 秋残り at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽
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