2014年09月19日

卒業387・秋桜花 :イカスミ柳

『卒業387・秋桜花
(西山讃歌)』
 
5/4
2014/09/19創曲詞
【咲き】小秋
【歌詞】春雪降り 穴山の
    あわれに 花咲かす
    古き御世に あたら春を
    花雪と この世にありて
    さき向かう 花波 
    浮きて あんなめる    
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい日です。
 そうきょうのよい自分です。
  
音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
****
  秋残り市立美術館秋期展示
  『機械の丘』
   小地 少 画冷      
  
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***
添付
『秋桜』
 余がいた春の山という。秋野菊咲く丘という。
この丘を彷徨していた話という。我が青秋の頃
で、青い秋という。この頃である。野菊をこよなく
めで、これをこよある野菊という。色とりどりの花が
咲いている丘園である。
 我が郷を見ていた余である。野菊が咲き染め、秋小春
をいう。気の頃という。天候の余である。わが郷を見る
余の姿という。余は天候をいう世である。旬ともいう。
余の絵という。これを歌染むという。歌をめでという。
めでをとる山の阿という。山阿愛歌である。この
丘である。余が歌う日は、いつの世もある。
いずれの御時、いずれの御世である。
いずれにも歌う余である。よのかという、いずれゆよや、
あすれる、こずれる、という。こあき〔小秋〕という、
いずれの世である。

夏なれゆ、蛍ゆ、舞えゆ、
小秋ゆ、そっつるしょくせる、すする、ゆっすく、
うつれつ、ささゆれ、さっつれっす、そっつ、とゆれす。

 秋残りの山という。世の創作である。この言葉も
そうである。機械語である。機械に言葉あり、はじめに
言葉あり。余のことである。切削機械である。
これを歌う余の歌という。
 
 いずれのきかいにか、歌う時が来る話しという。
機械が歌う時代の到来である。これを書いている
若い人という。

 この人も、余の見通しを正という。正義の余の
見通しである。若い人は、機械を先生とおもうて、
歌いの練習をする。そういう世の中である。

 余の構想という。言葉の習得も、機械を使うという。
いずれの御時の話である。今の世である。
今世も余の全盛である。ポケットに入れている若い人
である。連絡にも使うという、余の恩恵である。

 機械の余である。機械の世である。
Mention-Packという。言い袋である。
余によって書かれ残される一束である。
メモリーという、記憶という。
ここに記し憶、余である。  
  
秋残り世界文学全集 巻2
 『余は機械である』 item:Mention-Pack
 相手はワープロである。秋残りの機械文明である。
 余はメンチョン楼にいる、メンチョン(mention)の間
 である。Mention-Lockである。
 
 Garden-Mention, there's little hill in
 my eyes. Machine Mention Pack says,
 "All is in my hands. All right.
  World, you know, by the machine.
  Machine World, this day.
  All over the world, there's big
  Machine-Wave. Universe, that's
  for machine."  
posted by 秋残り at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽
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