2017年09月22日

卒業1893・京都船旅793古譜663大原練習283天の下98縄跳び(壮強太陽):イカスミ柳

字(あざ)のほうぼうで、腹を横に書く。:日山吹 柳
かいきょうのそうきょうはよい時です。:日スモモどくだみ
そうきょうのよい自分です。:日山吹 餡
天の下、山拝み。つねづね。:日紙祖川劣る
【曲名】卒業1893京都船旅793古譜663大原練習283天の下98縄跳び(壮強太陽)(鳴恭川世讃歌讃歌)
【創曲】2017/09/22柳晴創曲、熊 釜造 造詞、丹波 花由 監修備州 ソル(秋残り市在)
【拍子】
【種類】ジャズ時雨
【演奏】往来歓楽家、火打石愛好会の皆様
    仮名小文字ローマ字混ざりあえ
【場所】4戦回演、秋残り劇場
【歌詞】蒼郷 (紅世赤夜章)
縄が回る 回れば にょき入り
おしおよす 入れば 鬼 清盛さんの
顔 鬼の花 そり飛べば うれしいと
鬼遊ぶ 願叶うと お日入りどきの
お宮前 船立て前 蝙蝠が群れ飛ぶ頃
縄から出でた おいでと ないかま
 
 狐の天気予報。〇r2017/09/24
 狐と。 過去をとく、という。
 場所、そ。 狐言:こって。
 狐晴れを、柳世葉とぞ。 
 桃晴れごぎつね  
   ((明日晴れたなら行こう、大原砂山))   
【解説】君、探敵中、情景。 破風之談
柳太陽
------日出葦談笑聴
明日晴れたなら行こう、大原砂山  
品花雲しなよる〜〜柳雲〜〜山吹雲〜〜桃雲〜〜銀杏雲〜〜朴ノ木雲
Be in Ideal town.
【縄跳び】解述
 子供の遊びである。3、4人の人数でする。二人が対面して離れて縄の
両端を持ち、ぐるぐる回す。ここへ、3、4人目が入り、回る縄を飛ぶ。
縄を回すものが、或いは、3、4人目が、掛けを放つ。
『にょき、にょき、にょき』と掛け声を放つ。或いは『にょき、
にゃき、にょき、にゃき』と。この『にょき』を回すものが言う
た時、入る者が『むー』という。または、『むう、むう、むう』、
また、『むむむむう』という。清盛ごっこという。清盛の縄島と
いう。清盛さんという遊びである。この遊びをする者を平家
(へいか)という。へいか遊びという。これを、らっこ、という。
らっこ飛びという。ラウンスの山という。
『尻落として入りや』という。これをらっこ上げという。
尻の穴、尻の筋肉の為という。らっこ尻のらっこ穴、おならを
『むう』と擬態語をいう。ムラルゥ山という。ムベンセともいう。
せっせっせっのせである。ムベンセのせ、という。
 ムベヤラ・レッテそ、れつる、ふふるる、れむれるのゆおっす、
という。この、『ゆおっす』が、いわいという。ゆわい、という。
ユイハムのベルー、という。ベレルのご言いである。
 入る者が、縄を見る、この時に、駆けっこの姿勢をする。この
姿勢を『けん』という。むうけん、という。これが、剣道にかかる。
縄を『びっ』という。縄帯という。縄を帯びる、という。
メルレンスという言葉の回し使いである。これで、剣道では、
『むうけん』とは何かという。これが、宮本武蔵の剣である。
ささきの剣という。剣道で、先が花のような形をした竹刀がある。
この竹刀を、ささきの竹刀、という。この剣道を、むう剣術という。
む剣術という。表記に、無剣術、無剣道、とそ。花剣道ともいう。
防具は、今の剣道と少し違う防具を使う。この剣の使いをいう。
花剣のさし手である。これで、『むてあて』という。剣先で突く
をいう。これを、『つんつく』という。『つっけんどんな』物の
言い方をする。無愛想な言いという。この語元である。
 つっけんどんのけんれむ、という。やますの山師という。剣道の
師範をいう。これが『しと』である。『しと』という。師範を『しと』
という。駄作家は無剣道の『とし』である。剣道、やに段という。
数字で表して、82段とそ。闇の剣術という。83である。ヤッサンという。
やさぐ、やさぐる、やさぐめ、やさぐぞ、やさるふ、やさめど、とそ。
六段に活用さすヤッサンのやさぐの言葉という。『やさめど』という。
これが、『や』の活用である。『やさめ』という。『ややさめ』という。
 起き時にして、『めが覚める』という。この『め』を、『やめ』という。
この目の活用の剣道である花剣の無剣道である。
 夢覚めを無剣道(むけんみち、けんどう)という。これを、れむ起きと
いう。れむ覚めを、『れよう』という。これが、音変わりの『利用』と
いう。人を『しと』という。この言葉の変わりを『むべ』という。
『ありなす』の解釈である。『ありなし』という。ありてい、という。
ある状態、成した状態をいう。これを、『む』変わり、という。
無を有という。『うべなる』かな山という。無を有るという意味で
使う言葉とそ。現在では使わない。
 現代人は、はっきりと、無は『ない』の意、有は『ある』の意で使う。
上の場合を使う時は、言葉を添える必要がある。混乱を避ける為とも。
 もとおって(もといして、もといの意、元に帰る、本論に
かえるをいう)、この『もとおって、もといして、もとい』が、寝る剣道
である。寝剣道という。夢見の道ともいう。剣道寝という。闇に寝ている
剣術師範という。花寝のしと、という。花寝の人であるひぃに、果寝術
という。夢に花が咲く、という。ゆるゆる夢、とそ。
 ゆるゆるが剣道である、一義である。ゆるゆる夢ゆ、夢ゆるゆ、とそ。
ゆるゆる剣という。花目堂という。花目の山という。寡黙な人という、
寡黙の語元である。寝る人のことをも意味する、練る人である。
闇の剣道という花道の人である。これを、しんしん、という。
にょきにゃきの平家(へいか)である。へいけ、とも。
 清盛の寝姿という。半眼達という。剣道の目を半眼という。後、判官
(ほうがん)という。判官寝という。大きい目の出目の意味もある。
大物眼という。デメッソン・ルックという。大仏のような目むともいう。
この仏とそ。目の開いた仏像のある所を眼目という。眼目堂という。
この仏は、今の仏教の以前の時の、日本の仏像である。仏教がなかった頃
の仏像である。これを、山おろみ、という。山おろち、とも。
 さすがの大和朝暮廷の菅良である。すがよし顔という。菅良の目とそ。
この菅良を菅宵という。後、冠省語という。この冠は仏像の冠である。
冠省された現代仏という。冠を被った大きな仏像がある。石造、木造、
銅造・・とそ。この仏像を、大和見下ろす物、という。物像という。
これを、物のおし、とそ。後、物教とそ。仏教とも書く。
これを、清盛仏(清盛物)という。清盛さんごつ、清盛さんごっこ、
という。ごっことは、子供のことをいう。ごっこともいう。御っ子。
『いかにせんとて生まれけん、遊びをせんとて生まれけん・・・』
この『けん』は、じゃんけんの拳である。いかにせんとて生まれ拳と
、小手が生まれたをいう。じゃん拳だしを小手出しという。
 この文の変わりを覚道という。文の道という。闇見の黒文という。
黒家件という。闇の国家という。大和闇廷とそ。大和闇廷を、音訓混ぜ
読みをする。大和屋、みてい、という。えらそうぶった朝廷という。
何、アサヤンがっ! これを、超拳という。けんけんという片足歩きを
アサヤン歩きという子供の遊びである。『見てい、見てえっ!』という。
片足片手握りの挨拶を暮体(ぼてい)という。暮体の挨拶という。
この暮体が『ボテ』である。あさとみ、ともいう。ボテ挨拶という。
大和朝廷がこれを引用した、大和朝廷の官僚の挨拶という。
この官僚が花剣を持つ。頭に帽子を被る、この帽子を冠帽という。
冠の山という。冠山という、富士の雲巻き姿である。
 この姿をスガという。あの人のすが、という。
すがたは、手であり足である。すがおという。姿をすがおという。
これで意味を切った大和暮廷である。姿は姿と言い、すがおは素顔
である。姿をすがおという意味は切られている。ない、という。
これで、姿ボテの素顔良し、という。ボテ切りという。切った意味は
フランス語のボテである、美人のことをいう。日本語は太った人
という。大和暮廷のボテは、官僚をいう、大和暮廷は菅良という。
大和朝暮廷では、完了である。それで、大和朝廷という代表である。
三体一合という大和朝暮廷である代表が大和朝廷とそ。
花剣の無剣道である大和朝廷の黒道である。これを黒家という。
黒い夏の頃の国家という。若い人のいうこっかである。
 コッカーランという言葉の使いで、言葉の造りである。
 これを道という。今も、私は道う(わたしは言うと読む)。
言葉を道という。これをやなぎという。言葉の使いをいう。
やなぎの言葉という。流れの正しさをいう。歴史という。
これをれきじという。歴道(れきじ)という。古くの黒夏用語で
ある。
 この花の表しをした花剣を補足して真っすぐな剣にする。
大和朝廷の真昼の庭という。昼庭である。これを昼廷と黒夏式に
書く大和昼廷という。賞得大使のあの絵である。真っすぐな細い
剣を腰にしている。細剣道という剣術である。人の歩く剣道も
ある闇の剣道という。これが昼の闇である。大和闇廷という。
大和や、見てい!という、目を開けて歩く闇の道とそ。
これが、細い剣を闇剣という。細剣道の闇剣道である。
闇寝の細目という。これを、るるりり、という。
りりこの目という。後、凛々しいと使う。凛々しい人という剣道を
離れて使う。切り使いという。言葉の用法である。この闇剣と細剣
の竹刀の中間に三つ分かれの竹刀という。先が三つに分かれている
竹刀という。これを大和朝廷で合すところを今に持ち越した、現今
政治の三剣分立である。剣で権を表すという。三権分立という。
三つ分かれの竹刀が元である。これを、みなもと(源)とそ。
三っつをみなという。三つの元である。これが黒夏を有する秋残り
国家である。現今日本は無色である。ここにある政府は勿論無色である。
透明な政治という。闇の政治は闇の祭りごとである。これを大和分け
という。後、髪の分けとそ。後、ちょう曲げ、蝶曲げとも、
大和分けという。
 大和朝廷の大和分けは音にもある。分散和音という、三つ分けで
ある。三和音の文さんである。Cm、シーマイナーという。
大和朝廷のシマイナという。そういうことである。ナカシナの
語元とそ。シナナカとも。シマイナである。Dm、ディーマイナー
を、フラヅルとそ。Em、イーマイナーをミソレーという。
Fは、ファラ道。 Gmを、蘇詩霊、蘇詩礼。 Amを、栄ま今、
こんらぎ。 Bmを、レットという。これが、レッツル・レムヅル
という。レムが寝とそ。寝ることをレムという。大和闇廷の
言葉である。これを短ラムという。後、短乱という。後、短調
とそ。メージャー列が、C、これを〆(しめ)、〆調という。
D、デトラム。E、イメ、エメ、ユメとそ。F、ファッツル。
G、げれ、げも。 A、アーメー、モメハル、モメン、モメハン。
B、 ハッ、ハッセラ、ハプルプという。調でもある。
音楽から国家を区分けすれば、フランスをアーメーという。
ドイツをメックという。これをふらせる・ベーラーという。
日本をジャモニという。めてゆてのすすれす、とそ。
中国をナカシという。後、シナとそ。信濃や見てぃ!を長野を
中国という。こを東中(とうちゅう)という。ペンセラの言い
という。音楽より派生した国名の語元である。インドシナを
レッパという。アフレリルー、アフリラーともいう。
アメリ風をしめり風という、これをC調という。鬱陶しい
という。転用である。
イスラムをヘフ、インビスとも。ビズヒムというビズラムの
インビラという。イッセムともいう。仏像被りをイッセラー
という。いっせの冠という。伊勢の冠と表す。仏とは無関係の、
伊勢者、伊勢物という。伊勢のよ、という。
 アメリカをベバレジという。アメフラとも。アメクルとも。
ロシアを、蘇土という。蘇家(そけ)ともいう。中国をメシ
ハンともいう。これから、シャッピンという言葉をいう。
ミッシ・シヤッパンという。ミレスルのミルハムという。
これをグラレルという。グリコの山という。栗子のことである。
栗子中国と、果物で代表する言い方である。ナンカオというのが
中国の古い呼びである。ベバレジをべべという。ここをカリカル
という。カリフォランという。凧木、凧州とそ。アメレラーの
山という。ヨーロッパをムロルという。メンメスの言いとそ。
アフリカのプッテケという。プッテケメのしっぱつ、という。
シバレルすすゆ、れれそ、れれふのお国とそ。南米をペルーミ
という。ペルパラとも。南極をヤフという。北極をロメンテ
という。地球をメという。シとも。シトのヤルとそ。
太陽をルルロル、ルルハン、サンランという。月を、ギルという。
ギメともいう。ギッギクという。キギク、ギギという。
ギギ出という月の出をいう。月をミッツという。ミツレツのおきり、
とそ。サンランレックのうて、うつ、うち、という宇宙の
ことである。太陽を代表とする宇宙の言いとそ。ぎぎ山
という言いでもある。音楽より出てコウルクをいう、この言葉の絵
という。これを、ミットのいこらぐ、という。
太陽をサンペックともいう。サンベラとそ。日昇りをスーララという。
日入りをセッスという。セレサスとも。今の、レレの言いである。
子供の縄鳶飛び用語から出た言葉とそ。
『セラサス・レッテ、スーラスー』という縄飛びの一人飛びとも。
セレサス、セレサス・レッテとも。一人縄飛びとそ。
ごびすくという言葉になる。ごっこのことを、ごびという。
遊びの終わりに『ごび』と声をかける。言葉の終わりでもある。
正月のカルタ取りの言葉である。言葉の遊びの家、これを
モックス、モクハンとそ。後、木版画になる。もくすゆの
言葉という。大和朝とそ。こぺかな山のお書きとそ。
設楽文字という。これより少し新しいコペ仮名である。
絵に添えているものである。インカ文字を言う場合もある。
象形文字をコーラルという。コーラル・レッツという。
文字を列という。レメテスのおれる、とそ。ごだいの列を仮名
という、五十音図のことをいう。ごだいという。
*********
 秋残り語という。秋残り語による解である。りゃ、りょという。
この言葉が言えなかった頃の私とそ。これで言えた時が完了で
ある。五十音図が全部言えたことをいう。にゃもにょも言えなん
だのである。小学校4年くらいでやっと言えたのである。言葉の
遅い人である。りゃう、りょうに完了の意がある。
 秋残り語はそんな人が使う言葉である。身部、壬生語という
話である。幼児語の発展展開である。新しい言葉と、古い中の
新しい言葉であるという、恰好よく言う私デアル。日本の古代
以前の言葉で、比較的新しい言葉であるという。
 これを今様に、世界には類例のない、言葉であるという。
言語学の範疇にはない、新しい人工語である。世界という。
 家から外へ出れば、蒲鉾道を山と言い、アメリカの古い山で
あるという。アメリールロンテ山である。そういう言い
方をする。中国へ行けば夢放蕩山である。フランスでは、
十辺斜若山である。蒲鉾道が隆起した話という。
おロシア国へ行けば、すりがね山の氷山であってたくさん並んで
いたという。大根おろしのすりがねを見たら、これはロシア
金かなという。アフリカにはキリマンがいるという。
キッセラーのレベンセという。キツレツランという。
ブーランラックのブレメンという想像の仕方である。
キリマンじゃこのことをいう、鰐より大きな魚や、という。
アフリカのローテル山脈の麓をるる流るオスパンレベックの
レベカ川である。これを地内湖線という川のことである。
湖川のことである。レベカ流という。そこにキリマンがいる。
キリマン恋しやホーヤレホという。これをブラッソン・
レッテのお歌という。にょきにょきという魚の幼児語である。
この『にょ』が言えなかったのである。幼児の頃にも言えな
かったのである。れわんそのお言い、とそ。
人差し指程の小さい鰐がいた話とそ。トカゲであるかも
しれないことである。鰐は日本にもいる話とそ。白うさぎに
聞けばよくわかる話である。イーナン民話のお歌、これを
今に記す。ブレーメンはそういう人である。
 脳をブラルンというブラーレともいう。この期の私のブレイン
である。ブラルンもブラーレも新しい言葉である。
壬生語である。ブレーメン惹起の山、これを記す。
ブラーレン・ルックの『ル』の音が想像を表す、私の脳音声学
という。現実を見ル、これが現実をメというメルの言葉である。
褒めの言葉である。今による、メールがこれである。メールを
たっとぶことである。電子現在である。 
 
      秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』
       蒼郷 鳴恭川世讃歌 の項     
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物
       
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
秋残り市立美術館秋期展示
『古譜663大原練習283天の下98ビズススのムム(壮強太陽)』          
馮飛菊 画書家判 て、ごという字。
秋残り市、凡人倶楽部所属、凡(ぼん) 





    著者@350上巣真芯、植え住まし
        UESUMASi W.E.州 Machine  
-----------------------------------------------------        
 仮想店 出品 ID:KoH'yosi-66537
     画商『加端』名画専門
     豪華額縁付 2000円ヤナギ
***アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ***
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
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ブログでの団体名、個人名、他名称などは、
全て、仮想です。実在とは、無関係です。
楽譜の作曲者名、作詞者名等はもちろん、私が
勝手につけた名前で、ええ加減に書いてあります。
同じ名前の方がおられましても、その方とは、まったく
関係はありません。実際の作詞作曲者は、私、駄作者の
秋残り、本ブログ著者小林壱裕です。
記事は架空です。著者@350,635
Notice;writer says;
Names are virtual on this article.
Matters are not real.
posted by 秋残り at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2017年09月20日

卒業1892・京都船旅792古譜662大原練習282天の下97ビズススのムム(壮強太陽):イカスミ柳

そうきょうの思い出し:日能野鷹世
字(あざ)のほうぼうで、腹を横に書く。:日山吹 柳
かいきょうのそうきょうはよい時です。:日スモモどくだみ
そうきょうのよい自分です。:日山吹 餡
天の下、山拝み。つねづね。:日紙祖川劣る

【曲名】卒業1892京都船旅792古譜662大原練習282天の下97ビズススのムム(壮強太陽)(鳴恭川世讃歌讃歌)
【創曲】2017/09/20柳晴創曲、熊 釜造 造詞、丹波 花由 監修備州 ソル(秋残り市在)
【拍子】
【種類】ジャズ時雨
【演奏】往来歓楽家、火打石愛好会の皆様
    仮名小文字ローマ字混ざりあえ
【場所】4戦回演、秋残り劇場
【歌詞】蒼郷 (紅世赤夜章)
ふみはみやらやらゆ うつうつれれれれ
おりさんし ふむれれれれ
みどらららられ ビッ、ビッ、ビズ
ララスス ユススス ムムレブレ
とおいや おにかせらみ るるるる
ははれれるるるる フリーラフリランス
せっ つ ペッペラペラララ
うるるるららら
 
 狐の天気予報。〇r2017/09/22
 狐と。 過去をとく、という。
 場所、そ。 狐言:こって。
 狐晴れを、柳世葉とぞ。 
 桃晴れごぎつね  
   ((明日晴れたなら行こう、大原砂山))   
【解説】君、探敵中、情景。 破風之談
柳太陽
------日出葦談笑聴
明日晴れたなら行こう、大原砂山  
品花雲しなよる〜〜柳雲〜〜山吹雲〜〜桃雲〜〜銀杏雲〜〜朴ノ木雲
Be in Ideal town.
【長丘】
 京都に長岡というとこがある。その手前の大原を西津という。凶
というた京の頃である。今の長岡隣の向こうの西の原を大原といい、
大原野という。その山の横に磯という、れけという、みぶらむ、という、
ほねのや、という日の山のお入りという。そこの日の絵という。
 これを、まぶらむ、という。めめす山のお絵という。ふむよむの
けけらむ、という。れを、めゆるひびりり、という。『大原越えて
山越えて』という。めむ、という。ここを、めすゆす、という。
てめのおれ、という。めるらるゆゆゆゆ、とぞ。
 よめ山のお絵という。ここに、れす、ということという。
れす、を、べす、という。これを、レベルゥという。やもよもの
おいす、という。この山のいきに、れ、をいう。めらのゆ、という。
ゆらをめせという。めるふむのゆっき、という。これをゆきという。
ゆきを行くの古語という。これを、かむれる、という。せれのお絵
という。ねめれむ、という。めゆるはなふら、という。
 こりをくくという。こりをこれとぞ。こりの言いが出るはなる
という、えばの山のお書きという。ははらるれれよという。
ひで山のお絵、これを、ふるれる、という。この書きのこりをいう。
こりのややとぞ。とそえそという。めてゆてのゆるふるという。
これをこりという花のおことという。花の山の鼻という。鼻をゆて
という。これをこり鼻という。これっぱなという。これ鼻のおよという。
これをめるてとそ。めすゆすのゆてという。めるれるよよるせめす、
こりの絵のやおという。やおをせとそ。せという。これをめるふという。
めるれるの言いという。壬生やらあほるふふる、という。
壬生ゆら、ともいう、ここの場のポコという。ポコ場という。
ここのほうれるである。べすという。れすという。
京大原野のれくという。『そうれす』という。『そうべす』という。
どちらも『そうです』の意とそ。これをえりかるやという。
 りかろすという。りみろのペルレルという。ペッセという。
ぺつふむのくゆれるという。くゆくゆともいう。めるせれれゆら、
という。ここやら、おりるる、るるふる、れせるせ、とそ。
きみよてままら、を、ふする、という。めゆる鼻という。
これを花という。鼻花のゆきふりという。こと山のお書きとそ。
 『ゆっくれる』という。『ゆうくれる』という。この言いの
同様義をいう。これを同義という。夕方の山のお絵という。
 ひでら山におしよす、という。おしやすの意である。
後という、京都の『おしやす』になる。『これをする』の
軽い勧めのこととそ。『おしべし』という。べすの言いで
ある。『おしれし』という。れすの言いである。
これを『だす』という。ですをいう。『そうだす』という。
『そうです』の意である。長岡宮という。ここの言いとそ。
古く山をとる、とそ。『山を見る』ことを『山をとる』という。
ここの宮の言葉である。ナッピルレーレという。ナビルゥはっぱ
という。はみやむのおけれれ、という。これを、おけら、という。
おけら宮という。おけふりのふりよる、という。壬生の
せってら、ことをいう。壬生という。壬生の宮という。
壬生がきょという時に、この言いの頃とそ。これを巨視という。
後、はゆれる、という。めれすれのおっきく、という。
このやの言いという。おっきくれーれ、という。めてゆせという。
おいその山のお絵という。磯やらふるゆるれれふるすすゆ、
これをめるという。あおよそのいすれす、という。『れす』が
先ほどの『れす』である。『これれす』という。『これです』の
意とそ。これをとその言いという。れすの使いのこととそ。
京都れすという。言葉のれすの意である。京都べすという。
京都の言いである。地方でもこれを使う話という。
『そうだ』という。京都でもこの『だ』を使う。東京という代表
である。『そうど』という。ひめよらの言葉という。代表が姫路
である。『そうぞ』ともいう。れをれめる意という。
れっするともいう。言葉の列をいう。きょうを始めるという。
これを都という。都を作るという。自分のいる所を都という。
 これがみこの話である。これを、みのゆという。みのゆりらという。
めせゆせという。みが自分である意とそ。みこがみのやのみぶ、
という。みこみぶ、という。みれる山という。山をれくという。
れくれぇしょんという。この『れく』をやという。やれぇしょん
という。やっくすの言葉という。やく花のいやという。『や』が
『いや』という意である。いやすすむとそ。やすすむとも。
やざかえという、いやざかえという。さかゆきのおことという。
やむふるのふるれるとそ。ヤッセルルゥラァという。
ヤムセルともいう。るるするのゆゆすてという。
これを、こりれる、という。こりおりのここす、という。
南(なん)の山のお書きという。
 酒に花をいう。酒を花という。これを、花ゆれぜ、という。
言葉をたっとぶをいう。たっとの山という。てゆすという。
みるれるのゆくす、という。これを、ゆっきす、という。
この促音の言いをやまとらという。とらの言いという。
虎という動物のことの言いのややとそ。山虎のやまとらである。
大和朝ともいう。日本の大和朝廷とそ。この頃の言いとそ。
大和朝廷の文とこの文である。
 『やっとこ』という道具をいう。もの鋏である。この鋏を
作る話という。ゆゆれる山のお絵という。鋳型から鉄を流す
話の出とそ。鋳型を山という。ベルレルのユッスムという。
ゆるれるの話という。これをみたやらという。やみゆのこととそ。
この『やみゆ』を『ゆ』という。今に使わる製鉄業の『ゆ』と
いう言葉とそ。鉄を流す状態の言いとそ。ゆという大和朝廷の
やっとこである。これをやっとこという。『これをしておこう』
という。これをする話である。『行くとこ』とそ。
『行く所である。』『行くとこやった』という。
 これをベレルという。ベルレルとも。ベルレマという。
ベッセマという。ベルスともとそ。同意である。
みぶれるの山という。
 『ゆっきす』という。『ゆきす』という。同意である。
((不同意の場合もある、その場による))
『ゆっきす』を大和朝という。『ゆーきす』という、これが
奈良のあすれすという。奈良のあす言いという。れすらすの山という。
れすに変わったらすという。れすですを、れすらすとそ。
これを、ゆいやら、という。『そうらす』という。『そうです』
である。これを朗落という。朗落落としとも。これを、音に期すという。
16分音符の部分である。長丘かゆれる、という。ナッピルレーレという。
めすゆすの言いとそ。エッペルローレーのおいい、という。
エサンテともいう。ラレッスンスという。山ふらのおっきく、という。
おきくという。これをラ切りという。ラローの山という。
後、ラになる。西欧語のラである。冠詞という。ラ・ローという。
ラムのかんてら、という。かんゆるのけけくけ、とそ。
 冠語という。ミーラーという。ミーを私という。ミーラーも
私である。『ミーラーをー行く』という。『を』が今の『は(wa)』
である。『を』伸ばす言いとそ。これを、おみふり、という。
『をー行け』という。おーいけ通りという。おいけ通りである。
この行きをおー行きという。祭りの行列の行進という今という。
この『おー』を王(きみ)という。きみ(王)の行進という。
 ラ・マルセーという。フランスの歌という。マルがやたの意で
ある。『やったー』と言えばよくわかる話である。ラ・マルセー
という、万歳ともいう。『勝った』ともいうものである。
 ベル・ブラッセーという。この『ベル』を『よいという意とそ。
ベルラルという。みんぶるのゆすらす、という。『らす』は『
です』である。ゆんめすのおいい、という。
 後、『ベル』を『ブーザラー』という。『ブーメル』という。
ぶーらくという、ぶらくという。部落の一意義である。
今は、この意味では使わない。意味が切られた今の言葉である。
これを部落切りという。言葉をいう。今は、部族およびその
地を部落という。大和朝の部落という。大和朝で意味が切られている
こととそ。これを『ブッソ』という言葉の造りである。ブッソ切り
という。仏素という、宗教がない頃である。今の仏教の『仏』では
ない話という。『仏をきった』という言いの一意義という。
これも今では使わない。言えば、他の意味になる、言うた人に聞く
ことになる。大和朝廷の言葉が『仏を切った』という。どういう意味か。
大和朝廷である日の朝廷である日のとよここ、という。文官の言い
とそ。この『切った』が、言葉をいう。上文の意味切りである。
これを仏素という。
 フランスの『ラ』が、それである。フランス掛けの山という。
『ラ』が『ラ・マルセー』の意味を切って使われたこととそ。
駄作者の作である。上文である。これを作詞という。新しい言葉という
駄作の策士とそ。下手作はこのように書く話という。
 全文、だ堕落作である。堕落上げという。上げ下げ列の文である。
 都を作るという洞口である。『ホラホラホラホラというこの言いを
洞口言いとそ。ホラ口である。大和朝廷は、私の家の前である、その朝
ともいう。これを大和朝庭という。蒲鉾道の山である。便宜上、大和朝
という。これを大和朝廷という、私家本という、本本である。
本書である。歴史を覆さないのである。私の革命はこういう革命である。
サングラス朝である。ソウレス文という。ソウダレスという作家名とも、
駄作者である。ソウデスデスの名前である。これをソールという。
ソルともいう。ソッルともいう。名前である。備州ソルという監修の下
という。かいくぐった長丘落としである。ルルルという。名曲では使う
のである、真似をした駄作である。これを大和真似といっておく
のである。
 私の外国語はそういう外国語である。真似より続く学びで卒は続く話
である。
 『本朝は、唐へ官を派遣する』という私家である。現今政府はこんな
ことはできないのである。『本朝は、できます』という私家である。
どこまでも洞口の小さな家である。ホラ作話をいう。
 大和朝廷幕府官を監修という。平安朝でも監修という。これを、
幕府の修令という。明るくなった日には陋習という。陋習を守る
という話である。サングラス朝の本監のいうことである。『いとも
安んじて、習い陋々である。』 真似の造りである。たくさん真似た
話という。『おおおお』という。風の形容である。そのように吹く
ハーモニカの洞口という。洞口楽器という。大きな口になるという
楽器である。これを落としという。観衆落としという落とし方である。
『これは、素晴らしい真似である。』 ダレレスカという。
レスモニーの言葉という。平安朝を『レス』という。『モニー』は
朝である。大和から飛鳥へかかる日の五条とぞ。明るい五条である。
これを御花序の音声門という。御声門とそ。御条の五条の光、ありがたき
門である。平安朝御門はこういう。みかどを履いて清めた話である。
これをていちょうという。庭の朝という。洞口亭三頂という。
三省の語元である。ダレレスカの山頂である。
 古く、高い山をいう。ダレッソン・ダーレルという。ここの山の名で
ある。大原山という、ヨーロッパの高い山である。ダレレスカの山、
大笑いとそ。洞口のめでとそ。K2という山である。マッターホルン
という。ここを唐という。唐門山という。問う門ともいう。
大和朝廷の唐である。ナカシナという。シナの中という。アルレルの
おゆれ、という。アルプスである。西洋をアルという。アルタイ山
という。アッセルの山とそ。アッセル・ブラスーという。洞口が
入り口である。洞口入道という。入り口を入道とそ。
 雲が見て、『けけら』と笑った話とそ。雲笑いの入道とそ。
雲笑みとも。けけら道という。登山道をいう。
 洞口の登山は蒲鉾である。食官の意味とそ。四柱推命のじきという。
そういう話である。山をおろがむ話とそ。大和朝廷人の監修の習慣
である。古代人の話である。新しいことをいう。暗くなった頃、
サングラスはいらん話とそ。明治お春の日暮れ眼鏡という。
朝令暮改のこととそ。サングラスのかけはずしである。
これを明解という。明(ミン)の頃の話という。
 大和朝の頃の中国をシナという。シヌワーというフランス
語である。ナカシヌはナカシナの中支という。ヨーロッパの
話である。ここを、フラズルという。後、フラッセル、フラゼル
とそ。フスのや、とそ。ふすのやである。襖に描かれた絵とそ。
フランス山の絵とそ。これを、ふら目という。洞口と言えば、
目をふら目という。言葉の劣とそ。耳をるっくすという。るくれく
とも。るくれるみ、とも。頬をそーるという。額をはむという。
はれ、とも。眉をびれという。口元のふくという。ふく山のお書き
という。これをはーもという。はもとの口とそ。はーも列の山
という。歯をようという。これの活をいう。活用した入道という。
口が入道である。双ぶほ、という。これを、双頬という。
今の山のお書きという。双頬山という額平(ひたいだいら)の
歯名(はな)という。紫明の山お書きという。明るいはるくる、
という。これを、はっせ、という。ちょうの山の山のお書き
という。朝礼暮改というポッカリ雲の名である。朝礼暮雲
という。蝶々の浮かぶ飛びという。これを、あさくれのあそん、
という。朝臣の語の造りとそ。後に、平で、平氏の紋という。
これで、額を山額という。光る額という。おでこという。
『おでこ』の『こ』は太陽である。これを太陽子という。
小さい子をきみ(王)という。太陽王という。フランスの
ラ・マルラルである、マルセルとも。顔を丸で書く小さい子の
絵とそ。これを、おかお、という。おかおうの山という。
丘王という。これを子とそ。孔子のみつごという。
孔子の『子』をいう。ナカシのナカヌという。なかしなという。
中支の山という。西王という。西欧とも。これをなかしなのせ、という。
ヨーロッパをナカシナという言いとそ。『子』がかけもった話という。
K2をご覧という。洞穴二つの話とそ。立派な鼻という。りっぱな、
とそ。立ち花ともいう。けつの穴をりすという。尻の穴である。
りす穴という。K1入、という。ケーゼルという。これを、コー、
という。コレルル、レレル、ラという。この『ラ』がらっこという。
一番終わりをらっこという。らっこ穴の言いとそ。尻穴のことである。
 ひらがなの点を、りっ、という。りってん、という。山だらの
おふり、という。山だら点という。これを、せま、という。
れれほのてつる、という。『れれほ』は『ひらがな』の意とそ。
れれれ書きというひらがな書きのことである。
 『むらさきだちたる』硯書きという。紫の筆という。
紫筆という、これを私の筆という。紫式真似をもという。
も真似の筆とそ。紫式部分である。『いずれのみよのおほんときか』
という紫式真似という。『うつりにけら、ひたすらに』、電子京に
学ぶをいう。ナカシナの長丘とそ。長丘の山ヨーロッパからロシアに
およんだという。およよが丘という。ここの闇をきやみという。
きやみ山のお書きという。

レッテルニヒ、これとそ。劣家損という。緑ヶ丘の山、ここなるを。
緑ヶ丘記。全文藤原の宮の書きとそ。藤原という長丘の古い呼びと
いう。これを古呼という。ココという。ようろうのここ山とそ。
ようろっぱヶ原という、洞口探して入る話である。緑髪の鬼が
待つこととそ。人鬼という。人食いの鬼が待つその口を序という。
これを序記という。記鬼のお書きという。大和暮廷の話という。
 大和朝暮廷という、両廷ありる話という。夜の記紀を
『よりそめ』という。『いずれのよの、おくらい、おときにか』
というききせまる物である。赤い夜という。赤式部という。
あかいよ、という、赤夜である。こを赤暮れという。
おかくれ強道という。赤母神という道祖神である。髪を鬼という、
鬼子母神という。これを陣という、幕府である。この幕僚を鬼母
という。後、喜墓という。墓造りの真似という。鬼ケ夜(おにがよ)
という。きみがよの前夜である。幕僚羅列という。幕末を見る
という。これを、幕未、という。これがくる、という。
これ隠る話か、とそ。これが来る、とそ。繰りの語元である。
未来という。これを来未とそ。来未の意味という。鬼来未という。
鬼子母神という。鬼来未という背追う子という。小さい子を未という。
未来は先という。緑子の赤子とそ。緑鬼と赤鬼という。西紀という。
世紀は今という、世の鬼である。これを待夢という。待夢録という。
鬼が待つ夢入り口のセムという。タイムの古語である。
セームの意切りという。タムという切りとそ。セームの意味が
なくなり同意になったという。タイムのセイムという。
タセイムという。多勢に無勢とそ。言葉の尾に、勢う墓とそ。
これを、おに墓という。喜墓という。古く鬼墓という。
四柱推命の真似という。鬼籍の話という。鬼籍をタムという。
タムタムタムという。緩い張りのタムの楽器という。
そういう音がするタンベックという。タム張りの墓楽という。
これを酒池という。酒池肉林という。これを、林檎の木という。
酒池が池である朱い地である林檎のほく、という。
アップル・ツリーという。アップル・ツリーで、あっ・こわっ
という。平地に緑児が立っている話という。手に持つ口のくわえ
という。これを、アップル・リーという。すももをりとそ。
すももをりずたらという。この『たら』をいう。『そうたら』
とそ。『そうだ』である意とそ。平地家の言いである。
『そうだろ』という。『そうたら』の『そうだろ』という。
これを両方言う、『そうたら』と『そうだろ』で『そうる』とそ。
『小林る』という、『小林です』の意とそ。『山田る』、『山田
です』の意。これを、ぼ言いという。ぼの言い方である。
大和暮廷の監制の言いとも。日暮れを鬼子(おにこ)とそ。
鬼が中へ入ってくるとそ。これを、とそ鬼、という。
鬼山のおらく、という。鬼がルネ、という。鬼が寝るという。
鬼がルクという。鬼が来るという。これを、隠れ見という。
『けった』という言いとそ。子供の遊びのかくれんぼとそ。
鬼を見つけるはる、という。これを、けりその言いとそ。
鬼の間の山ともいう。危険を避ける、鬼語という。
季語の山という。俳句の武道という。季語を使う俳句をいう。
これを葡萄句という。俳句のことである。子供の安全をいう。
五七五という。奇数のめでをいう。裏隠れの安全という。
これを見つけ出す、葡萄句を、苦(にが)い人という。
若いを苦いという。若人を苦人という。和解の意味に
苦いがある。『いずれの、おほんときにか』と尋ねたら、
『おほんきと』とそ。言葉の順を逆にする子供の言葉遊びの
真似という。これが赤子式である。子赤入という。ハッペラ・
バップという。バオバブの木という期という。
 キトサンの造りとそ。薬の造りである。林檎の薬という。
林檎がのこをいう。のこぎりとそ。のこぎりの楽器という。
それをすくという。すーれる、ともいう。のこぎりの山とそ。
鬼の切楽という。これを季楽という。五七の楽とそ。
 これを、俳楽という。楽器ののこぎりに合わせて俳句を
詠すをいう。この音を出す、半音の和音とそ。シとドの和音
とそ。ミとファもある。他、色々。のこぎり音という。
 こをわ、鬼の夜来という。夜来半という。半音である。
セブンス・コードという。メージャー・セブンスとそ。
これを七目音という。これらのセブンスを目のお方という。
大和なでおこ、という。七歳児の子の声をペルという。
ベベンスという。七色の声という。キィーッと下げる話とそ。
これがジャズという。ジャズラツという。ジャズいっと、
という。jazz itという英語の話という。七の意がある。
この七を半分という。3拍半という。これをサードろくという。
サードの輪という。三輪車ののりうとそ。
和という和の句である。俳句を、五七五で半分で切る、
五と三半という。ごみ山という。五拍と三拍半という
歌の律を夜半の矢という。八拍のことを矢律という。
これを半分にする四拍という。しっぱらという、音楽の律
をいう。これを鬼音という。きおんしっぱく、という。
きおんしはくである。今の四拍子をいう。鬼の音という。
これの、鬼拍をリットという。リットミット、リトミト
という。みんぶすのかれれら、という。かれらの律という。
かれらでという。かれんみら、という。かれんみ、ともいう。
四拍をかれんという。かれん楽をいう。かれんび、という。
これを、ビタス、という。ビタミタのゆるゆる、という。
今をみむという。みんのたか、とそ。今をみんという。
りりふのお、とそ。四拍がかれんをいう。かれらるれれ、
かれらるれそ、とそ。髪拍ともいう。これをはっぱくという。
八拍で、半分をいう。四拍をはちにとる、エイトビートという。
エイピーという。えいたかという。エイリラという。エイはる、
ともいう。エイトビーのゆりやら、ゆいりらという。
みぶすみの丘楽という。求楽の士である。苦い楽という。
にゃー楽という。若い人の楽とそ。若いをにゃーという。
若王路・・・にゃくおうじ、という。にゃくおう(若おう)の
学という。これを、けんけんがくがく、という。
がくがくの言い元である。にゃくが元である。
後、見学という。見学が語元である。
 音楽より割り出し、鬼を呼び、割った語元解である。
足し引きのロットセーという。朗楽(学)割り元、ごもる
くゆふ、という。エイト論これなるを。

【sotu1892】
 歌はフリーランスという。縄跳びの歌である。語も縄跳びに
使う語である。れた列の言葉である。すすゆという、進むの意
である。むーむらべという地の山歌とも。みすらすの山である。
ミッテの山の書きとそ。
 帰暮で、簿記の記帳という大和朝暮廷の監理である。
  繰京のお書き 

【南徳】
 京の千代という。千代の原の東という。今の9号線千代原口東である。
ここを南徳という。めつるやや、とそ。これを、もず(百舌)という。
百舌という場所である。後、物集女(もずめ)という。ここを、さいなん
(西南)という。今も西南という。西をさいという。西是(さいぜ)とも。
今山の絵をいう。この絵を江という。絵に描かれた江でもある。
 古くに水があったをいう。めれという。そんみという。てすふくの
ろらろらという。これの言いの場をサイという。代表がサイである、
西という。催ともいう。みっそみという。これをふんまるという。
はくれるという。めめ山のおいそ、とそ。物集女街道という今の街道を
めめ行きという通りをいう。後、めめ行き通りという。古くの一時代である。
これを、めめもも、という。この『もも』が百舌という。目の下の通り
という。えぶれるのくっさむという。くされるという。草の深いをいう。
この『深い』を『ふくい』という。今もこれをいう。ふくのという。
深野という表記とそ。大坂山の絵という。ふくのなん、という。
これをふくのみなみとそ。ふくみなみという。深野南という。
ここの『野』の、のを『ぬる』という。ふくぬくという。『ぬる』を
『ぬく』という。これを『ふくのみなみ』というひぃに、『ふくぬき』と
呼ぶ、言葉の使いをいう。めてゆす、という、言葉の使いという。
 この言葉の使いを『ふってく』という。これを『ふふれ』という。
『ふりする』ともいう。ここを、深(ふく)で掛かった地名とそ。
言葉がにかよる話とそ。深野南と南徳とが、にたような言葉を使うこととそ。
れてのわら、という。れむのやお、とそ。めめの言いという。
『め』を『ぬほ』という。これを『むほ』ともいう。めのことをとそ。
『むほのぬ』に、南というれての方角をいう。南をれてという。
西に向かって左をいう。これを南方(みなみかた)の方角示しという。
れてという左手のことを方角にいう。一般にれての方角という。
南であることとそ。また、東に向かえば北である。れて方ともいう。
れての左に、右手をみっつという。これをみっつてという。
 るむれるのおるる、とそ。言い方である。南徳を深見(ふくみ)という。
この時に、深いの方角をいう。東と言えば、西にある場合とそ。
自分が西にあれば、南徳を東という、東の方という。今も同じである言い
という。これをみっとという。みつれまという。言葉の使いとそ。
これを、むうら、という。むうむうともいう。南徳やっきという。
むうむう言いの村瀬という。ここの村をゆうとそ。邑という。
これをくるるという。文を繰るひぃに、ここの人の送りに、そうという。
人を送る送別のひの、そうという。このそうをゆうという。
 ゆうそうと、言葉を補うことの出の場とそ。南徳の出である。
宮の駅という。駅間のえつらつという。南徳の山のお書きという。
今もこの南徳に電車が走っている。桂の一般名称である。古く南徳と
いっていた頃のこととそ。桂で上桂(かみがつら)という。この『かみ』が
京都のかみでもある。北を表す言葉とそ。この『北』に、なんみという。
なんみ言葉という。南をみた北という。これを、そんみ、という。
北を照らし合わせて、そんみ言いをすることとそ。これで、南徳という。
南を徳という、その古い頃とそ。徳方という南をいう。徳方を徳るとそ。
徳る方という。徳山の言いとそ。西山を徳山という替え言葉という。
これが東るという。東の方を東(とう)という。これを徳法という。
言葉の使いの法という。後、方の法という。今の方法の言葉の造りの
解きという。言葉を説いていく話という。ペンという。これを、北に
いう。北という。北から来た方を『きたの方角』という。南から来た方を
なんみやという。これの使いの宮をナンという。ナンを南という話という。
なんぐう(南宮)という。古くの南徳である。方角をみやという。ぐうという。
きゅうとも。これを、宮言いという。『ひぃに』という。『時に、節に』
という意とそ。言ったひぃに、行った時に、という。今は、時と使う。
ひぃにとは言わない話とそ。使えば意を知らすという。知らし言葉という。
『ひぃ』の言葉という。この知らし言葉という言葉は何時からか。
これを、なんじ、という。何時の方という。れが、言葉の方角である。
南の方の言葉や、という。なんじを南時という。これが、南の南朝という。
南の朝を、みな、という。ほくれつという言葉の言いという。
みなという、南で朝という。時方の言いという。今の言葉のできがそうである。
南方ひの話という。この『ひ』が陽である時という。言葉の使われをいう。
言葉の使われた場が自分のいる場である。これを南点の身という。なんみという
、替えて自分の意という。これを、身の言いとそ。『なんみは行きます』
という。深野南の言葉である。『私は行きます』の意である。京の千代の
言いでもある。これを、深見言い(ふかみ言い、ふくみ言い、深身)、
含んだ言いとそ。ふくみの言いという。含む意という。深いの意である。
これを深海(しんかい)の言いという。
 この場が、海の用語を陸地に充てて使う場所である。大坂深野もそうである。
なんみという言葉がこれをいう。なんみが深い場所である。山深い里ともいう。
この『山深いの深い』が海の深いになる。近くに街道という。この街道を
海道に表記する。海山道という一般名詞である。海山道の言葉が今も残る
御所海道という。これを、『ごぞ』という。一般にごしょかいどうという。
海の話で始まる場の山を『うなみ』という。うなみ言いという。
これが、山原を津という、うなみゆという。山を矢(や)という。
これをさんしつ(山矢)という。ここの場を、是(ぜ)という。
丁寧におぜとそ。ごぜとそ。御是という。場所を是という。
これを、文の場に充てた言いの書きを、国是にみる。社是にみる。
この『みる』の使いがなんみの使いである。『なんみ、ぜをいう、
きたほみ』という。北朝のことをいう。北であって、朝である。
これを、時報南是という。私の時と場を知らせた時報の言いに、
時報は12時という。8時という。どこの場であるか。
これを、場の意味が切ってある時報の言葉とそ。時だけのことを時報という。
これを、なんみの切りという。なんみが何時である。なんどきという。
なんじという。『今、なんどきや』という。『なんじや』という。
この『や』が、なんみ切られた『や』である。問いの言葉である。
一般に『か』と問う言葉である。これが、ムームー言いのれるか、とそ。
ムームーという言葉の意である。
 簿記という。古く記帳の簿という。簿記の語源である。なんみやの記
という。なんみやを簿の宮という。簿宮という。大阪の深野南という。
京の千代という。他に、水中の宮という。全国にたくさんある宮で簿宮
という。水の中の鳥居をいう。その宮を簿宮という。古く薄暮れという。
はくぼみやという。これを、白宮という。水の中の宮のことである。
 暮れ宮ともいう。薄暮が、これである。白夜という。白暮とも。
はくやの白夜宮とも。これを、びゃくや、という。はくをびゃくという。
めるれるの言いという。
 びゃくせまとそ。白夜の狭方という。これを東に利用した、狭法という。
東をせま、きょう(狭)という。南徳の東が京都である。これを、みやびら、
という。みやびらの沖山という。言葉の言いを山という。これを山師という。
山師の言いである。山紫水明の言いの説明とそ。師が頂をいう。頂の意味で
ある。紫明けの山という。いずみの山ふみ、という。自分がいでた時、
山をみるとそ。その時が水明である。この解釈が、山の2用語に海の
用語を使う名残りという話とそ。
 きょうとを狭いという南徳の大原である。北のほうが北山という。
南が水無瀬という。東が今の桂東である。西は西山麓である。これを、
大南徳という。徳川という川が流れていた頃の桂の千代という場所とそ。
大徳川のお書きという。U字谷の川とも。東が少し高くなっていた場所とそ。
とその意味がこれでもある。場所の意味がなだらかな麓である。
とそ原という。今では使われない、一般名詞である。
 U字谷の原をとそという。川が流れ添うこととそ。
 とそ切りでU字谷は、両端と片端とある。どちらも切れているU字谷を
いう。どこかで切れる谷である。かれ谷という。古くガラという。
ガレ谷ともいう。とそである。とそ切りを地名という一般の地名である。
とそ地という。切りに使う場合もある。正月のとそとそ。正月をとそ月
という。これを転用の使いという。U字谷という地理学上の言いとそ。
おとそという。おとの山のお書きという。本書とそ。『だ』の意味である。
『である』という意とも。これを、なんみ言いで、ロラという。
『そうろら』の意味でもある。『なんみそうろう』という。なんみの
そうろらである。返って、『そうだろう』という意味に使う場合とも。
『そうらろ』ともいう。『そうら、そうら』という掛け声がそうである。
南の宮の掛け声とそ。とそ掛け返りという。転用を神輿の返りという。
返りの地点をとそという。
 『よっちゃ、よって、よっちゃ、よって』という、これを受けて
『ソウララ』という。『よっちゃ、よって、よっちゃ、よって、
そうら、そうら、そうら、そうら』という。神輿担ぎの言葉である。
『そうれ』という転用である。
 『そうらよって、そうらょって、びっちょはって、ぬー』という
備州ソルという掛け声の一種である。びしょ濡れの語元である。
なんみやも、これやる掛けという、掛け声のことをいう。
『むー、むー、むー、むー』という、『ぬーぬーぬーぬー』とも
いう掛け声は、やっさかレルラー、にゃく掛け(若掛け)という。
いずれも坂がかかり水が掛かる。やっさかという、やさかという。
坂を上るのに使う掛け声という。
 『にゃっき、にゃっき、にゃっき、にゃっき』という。
これをにゃきそという掛け声である。ダンソン・ブレルという。
そのように出てくるダンサーである。ダンツォン・カーレーという。
山の段差のこととも。

付け
【sotu1891、1892】
音楽では、4分音符付点八分休みの16分始まりという。前歌
(sotu1891)の31小節目のギターのこと。少し律が変わりはっきり
ギターが聞こえる、惹起入れという。にょきにゃきという。
ギターの得意面という。
 平家のにゃあにゃあ掛けという。『にゃあにゃあ我は・・・』
とそ。『にゃあ』という掛け声である。
 ギターの山の北面流である。にゃあ流れという。U字谷の流れである。
 北面流ギターという。来た(北)のことをギタと言うた平家である。
にゃくそん(若村)という古くの惹村(じゃくそん)である。
これをソンミ弾きという楽器の弾きとそ。平家落としともいう、
現代琵琶のキターである。北村楽という。北邑楽とも。
北を来という。来邑らいんという。邑来ともいう。
単に邑引きという。(ゆうびき、むらひき。)
ラインライトのギターという。この表現を、駄作語りという。
オーバーという大原の大場で弾く人という。洞口語りの転用である。
じゃくそん(若村)で、マー行けるわー、とそ。
私は弾けない人である。オーバーな文のドライブである。
点落としの清盛さんの真似である。天を落としたという清盛の出世
とそ。とぞ点(とぞ天)落としという。とその話とそ。
31小節だけを律で繰り返せば、縄跳びになる。
『にょっくにょっくにょっくにょっく』という律とそ。
両端を二人が持つ、その時の入りの人への掛けである。
三人目が入る時とそ。
鬼入り縄跳びという。足に縄が掛かれば『ハレマー』という。
鬼はじらいの繰りけ、とそ。邪気入り、という。
オーバードライブ・キター文、これとそ。

 
ソウキョウ 1817/06/15つつづゆるゆ(ほそす、とも) 
900三条川原,100四条の森,1400静小島,1800五条川家
京都府凶都上空くくく

      秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』
       蒼郷 鳴恭川世讃歌 の項     
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物
       
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
秋残り市立美術館秋期展示
『古譜662大原練習282天の下97ビズススのムム(壮強太陽)』          
馮飛菊 画書家判 て、ごという字。
秋残り市、凡人倶楽部所属、凡(ぼん) 


beige brown

    著者@350上巣真芯、植え住まし
        UESUMASi W.E.州 Machine  
-----------------------------------------------------        
 仮想店 出品 ID:KoH'yosi-66527
     画商『加端』名画専門
     豪華額縁付 2000円ヤナギ
***アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ***
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
 ----
ブログでの団体名、個人名、他名称などは、
全て、仮想です。実在とは、無関係です。
楽譜の作曲者名、作詞者名等はもちろん、私が
勝手につけた名前で、ええ加減に書いてあります。
同じ名前の方がおられましても、その方とは、まったく
関係はありません。実際の作詞作曲者は、私、駄作者の
秋残り、本ブログ著者小林壱裕です。
記事は架空です。著者@350,634
Notice;writer says;
Names are virtual on this article.
Matters are not real.
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2017年09月19日

卒業1891・京都船旅791古譜661大原練習281天の下96繰今日のおいき(ダビ光、ダビの星)(壮強太陽)

そうきょうの思い出し:日能野鷹世
字(あざ)のほうぼうで、腹を横に書く。:日山吹 柳
かいきょうのそうきょうはよい時です。:日スモモどくだみ
そうきょうのよい自分です。:日山吹 餡
天の下、山拝み。つねづね。:日紙祖川劣る

【曲名】卒業1891京都船旅791古譜661大原練習281天の下96繰今日のおいき(ダビ光、ダビの星)(壮強太陽)(鳴恭川世讃歌讃歌)
midファイル
【創曲】2017/09/19柳晴創曲、熊 釜造 造詞、丹波 花由 監修備州 ソル(秋残り市在)
【拍子】
【種類】ジャズ時雨
【演奏】往来歓楽家、火打石愛好会の皆様
    仮名小文字ローマ字混ざりあえ
【場所】4戦回演、秋残り劇場
【歌詞】蒼郷 (紅世赤夜章)
君は行く 徒も波を越えて 遥々
越えて遥々 君の焼き声 聞こえた
聞こえた 冬寒空 雪降るや 
木々白よ ありはるる 浮谷行き 
君山晴れる るるおして きぶらぎ
そゆふれら ひぶるかまゆれ かかるを
すゆふれる るるるる
  君は行く 氷道 滑りつ滑り
  滑りつ滑る 葉に降る雪の 緑傘雪の
  里を思う 遠い里 尋ねる日 駒歩く
  谷渡り つららが垂れる またもまた
  谷之き福風が 音をたて吹く 雪落ち
  小雪舞う うううう
(旅の記、その譜)
 ダビに譜し(旅に譜す、旅記) ビズおして(歩いて)
 やまらゆきゆく やまをゆきゆく(やまへ行く)
 はならまの宮 せせらよふかれに ふきつふきす
 かざらめの まきまくを とらのはや ビズすびづる
 花吹かれ飛ぶ かれらでで くりこむ こむなぎる
 冬さむざれの されらづ ふなやおい おおおお

 狐の天気予報。〇r2017/09/21
 狐と。 過去をとく、という。
 場所、そ。 狐言:こって。
 狐晴れを、柳世葉とぞ。 
 桃晴れごぎつね  
   ((明日晴れたなら行こう、大原砂山))   
【解説】君、探敵中、情景。 破風之談
柳太陽
------日出葦談笑聴
明日晴れたなら行こう、大原砂山  
品花雲しなよる〜〜柳雲〜〜山吹雲〜〜桃雲〜〜銀杏雲〜〜朴ノ木雲
Be in Ideal town.
【長丘落とし】
 歌の終わり、16文音符で音が落としてあります。長岡の風の落としで、
京都の長岡京へ行けば、時々この風が吹きます。るるるる。
【繰今日、ダビビス】
 ビズおす、歩むこと。ビズをされという。されほという。されほねという。
ダビのビズという。ビズふむ、ダビゆきという。ビズを踏んだ山の絵、これをとぞ。
しゃれさまず、せをおせとぞ。れるふる、すすゆる、くみすよ、くみすゆ、これを
れっととぞ。れっとめともいう。これがさぬんの山をとる、びふりるという。
エムステの山という。メッテルの山々という。
 ビズふすダビふりの山という。後とぞ。大原茂(おはらも、おおはらも)という。
大原茂のみそっすずという。エルテスのやお、とぞ。えってるの山をいう。
耳山のお行きとぞ。『きみ行きし、みりびり』という。やふてらのおりるろの
せつゆつ、という。これを大原野行という。大原山の西の山とぞ。れれんその
おって山という。京の西の大原という。大原野という。エステスのくくれる、
という。めすをいう。めるすめるれるという。ここの雪景色である。
 つららが降りをいう。つらつらいきゆち、せてふりの雪すよ、という。
めっての山のお書きという。文つゆの山、これをめめすという。ブンれるペッツの
山という。、これを、れんて、という。れんて山のおゆるけけすよ、という。
雪おす山のお絵、これをおおてという。おおてのメルブスという。メッテの
意味である。めてるの山のおれゆき、という。めせゆせという。これをレゾという。
レゾれるすゆゆゆ、進み行きのおてやら、という。手袋の旅手という。これを、
足手履きという。手をつけて急斜面を行くれとんそという。めつれつのくゆくゆ、
という。くっせのおてる、という。くゆくゆ登る山の、手つき歩きという。
めっせという、歩きである。これをビズロクという。ビズすゆのビミミツ
という。ビッスふりらく、という。古い日の歩きという。
 家前の蒲鉾道をそうして歩くという、私の登山である。しんどい話という。
これが山道の歩きのしんどさという。緩やかな斜面を歩いている方が楽である。
膝あてをして歩むという、準備万端のしこしらえの家前登山である。遠く西山と
東山が見えた話である。あの高い山へ行くという、行かない話である。自動車で
行くという。夢成りえた話である。
 この日、京都は寒くつららが家前にできたこととぞ。西山大原の話にして
おきました。
 京都の西山麓に大原野という所があります。西の大原という。今の大原野とぞ。
そこの奥のつれらく、つんばすという所の話です。つんつん雪降り、行く行く山野
、竹ゆら、あれられ、せみてる、すすゆる。せっせのおはまゆき、という。
大浜という、山の斜面の浜で、原である。京の大原、ここをやっくれという。
やっさむともいう。西の大原である。せめすゆのえたるらという。えっせむの山、
これをとぞ。とぞ山ともいう。大きな原の、はるゆる、という。えてふての
せむする、という。これをせってとぞ。山々があるをいう。あるれるのせれせ、
という。大原野の歌という。君山晴れるとぞ。遠く君山を見れば、晴れていた
山とぞ。行く山道は雪降り雪降りとぞ。つらら下がる冬空行という。
 家前の景色である。蒲鉾道の厳かさという。
 つららゆらゆられ、溝やられれすとみという。大原茂の大原、同じの地名とぞ。
歌もにかよる節である(大原茂・王愉の歌)。れんてむ・そうるく、という。
ソルの山のおよらる、という。とめの山、これをとぞ、とぞ。
とぞとぞゆれる、つつらこおりのつららという。めめすゆ、ててる、おりろる、
るるするうりやら、これをめてという。右左と歩むめてである。
手歩きのめて足という。ひだすゆ、れてる、れてんそ、これを大原という。
おはらともいう。大原小原ありほるれ、せむての山とぞ。
 ダビにふすという。手歩きをダビともいう。旅ともいう。これをビズおすという。
ビズおしのあゆふるという。ビズを足の骨にとる、足ふりという。これを歩む
という。後、ビジという。ビジる山のおえおし、という。今の英語の
ビジー(busyビジー)の元語である。壬生語という。その一つの歌語という。
歌語である。歌に使う言葉である。壬生のユーラレーという、ユーレルのおこ、
という。ユーレルラッツという。後を、オーパという。オーパラッツの山である。
この山のお行き、れっそるるるる、という。るるるるをめれるという。
めるすの語元である。めるるるともいう。めせの山のおつる、という。
つるつるゆるれる、ゆうれるせめるれ、という。せっすの山という。
これが、歌語である。
 聞こえ谷てらという、谷照るの御道という。これを、護堂という。
ごみすよのお書きという。大道の山、これをたいふるという。
たいせまの山という。うちやさのきるふる、という。ののやら、おりする、
おりろる、おりれる、おすゆ(おっすゆ)、という。これが、歌語の壬生五段
活用である。これをめという言葉の用法である。壬生てる語ともいう。
てららるきっすぐ、という。山名のおふれ、とぞ。
 山の五段という。今の五合目とぞ。目という活用である。
しとめ、みとゆ(みとめ)、ふたよみ、ひとよ、という。
むごす、ななよる、やつめ、ここのほ、とおる、よとおる、よひと、という。
十一でてっぺんである。頂をてという。この辺りをてっぺんという。
十二をいとよという。十三をさせという。十四をとせという。これをななよ
という。一週間のおめらかという。午前と午後のよみという。
よみる山の絵これをとぞ。
 十一をてという書きである。むつれつのおち言いという。メッツの山の
ゑという。山たらよみで渡る世という。蒲鉾道を渡っていく人である。
これを蒲鉾人生という。人の世のダビゼという。ダビおしの意味である。
今のダビにふすという意味でもある。ややご歩きという。ややの歩きとぞ。
よつご歩きという。人生をダカという。ダカセルという。
 自分をダカという。ダカセルモという。これを、モボという。
モガをめってという。モボモガのお書きという。モダン・ボーイに
用いられた話とぞ。モーレルコンスーという言葉の活用である。
若い人のモダレラである。メックスという。あおやらろんそ、という。
そのことのおきとぞ。山の周りを沖という。山目の言いという。
海用語の活用である。
 ビジらる剣法の山という。剣法書き話である。ここをつるぎよという。
大原山のおすゆすである。蒲鉾大原の我が家である。大きな原であるという。
端から端までが見えないという。そんな大きさである。蒲鉾大食らいの
意味である。蒲鉾山のお書きという。おとんせの山これとぞ。
 板付き蒲鉾をひっくり返してみたら、そんなU字谷である。広い大きな野原
とぞ。蒲鉾谷という、U字谷のことである。広い大きな原野を大原野という。
一万年世の話という。誰もいず、家だけがあったという。家を友という。
友の家のお書きという。ここを友野という。長岡の友野、友が丘という。
友岡という。U字谷の地理である。西山麓の谷である。大きな川が流れて
いた話である。大口平の蒲鉾食らいである。これを冬口空食という。
空へ向いてポカンと口を開けていた駄作家の名である。駄作家という人
である。友達である。そういう家である。うつろな人の山という。
箸をふりまわして剣法という。十二段活用である。はしけという。
船でいったという。ふな宮のお家という。蒲鉾御道の大きな宮である。
 蒲鉾宮のお書きという。
 ワナワナ震えたという。ワーナーフレンドである。蒲鉾供えの神宮
という。船立て宮という大きな宮である。これを洞口という。
ホラホラワーナという神輿の掛け声という。そこがU字谷の洞道という。
U字谷の入り口を洞口という。山の穴の場合もある。むじな穴という。
お尻をむじなという話である。大きな原っぱのお尻である。
 泣く子がおならをするむじなやという。山場のお言いとぞ。海鳴りの
おならという。匂い付き風が出てくる話である。メブスウという意味である。
後略
 ダビズ、ビズおす しらぼねのかれら、かわをほねという、後、尾根とぞ。
 この『ビズ』、後、biz、bizz(ビズ)、bizzy、bisyビジーになる。
 忙しいのビジーである。ビジネスがビジ骨である。足の骨をビジ、ビズ
 という。
死、葬に関する意味もあるが、ここでは、生きて旅をする意である。
 おいきというのが、生きである。ダビが光をとる意である。
 ダビ津という津の光でもある。山の津、平地を津というこの意の系の
 言葉使いとそ。とその『と』、初めをとという。家の戸がそうである。
 ダビ、太陽のこととも。太陽の光とも。ビズともいう。
 ダビで、旅出
 太陽のことを、かれらという、かれ、とも。かれらでと、日の出のことをいう。
 旅出の日を、ダビル、ダビビ、ダミモ、ダビはま、という。旅程のことになる。
 ダビ浜と旅程を浜にとる、これをれんぶす、という。メッテルのゆいすず、
 という。メッテル日、という。メスユスのけんぺら、という。
 エール・レッテル・レーレという。めびらむのるるふる、という。
 るるふるが、みをいう。みぶ、という。(身の部、身部(しんぶ)とも。
 みは、自分のこと。ミは行く、という。私は行く意である。
 みのぶで、みぶで、自分の体である。ミーハムという言葉である。
 古い英語に、ミー・アムという、言いがある。今のアイである。
 このみーが自分を意味する、ロッテ・レールルという、言葉の使いである。
 レブロンという、自分の意味という。。自分をレブという。
 レーメル・−ルの言葉の、れおんせ、れおんぜ、という。
 メルラーという、けんおしのるるが、これである。
 るるるるが、これである(歌詞にある、ルルル)である。
 ターミル・ハットンという、べぶればのみおん、という。みおんす、とも。
 べべの言葉とぞ。れれふる
 ろうろう、という(ローローではなく、ro・u・ro・u、とはっきりuを発音する。)
 メルレーのべべふむ、という。この『べべ』が、着物のべべである。
 べべおし、という、めつれつのおっそる、という言いである。
 べっためという。べべふすのあつれつ、という。
 とらのほ、という。とらのめ、という。とらのはや、という。今の台風
 という、大風をいう。とらのめ台風という。てぶすの山という。れんれるの
 おてゆて、という。あすれすのくゆれず、という。
 かれら、という。これで、英語をいう。call it a dayという。
 べべはなの言葉である。日を終えるをいう。一日の終え、とぞ。
 仕事をここでおく、という意になる。仕事の終わりにかれらでという。
 食事の意味もある。
 し、という。『さあ、しのか』という。仕事始めに使う言葉である。
 この『し』は初めの意味である。レンフルという言葉の言いのもちあち、という。
 メルレルのめせゆせ、になる。めめす、という、れぶんの話という。
 レップス・ルーレーという、メルレルのことゆ、という。
 れぶんすのエルテルという。めっせ・あるある、という。ゆっすの言葉という。
 めせの言いという。主に島の場のこと、とぞ。
  島を山という。この時の、海用語をシマにつかう。この『シマ』が
  山である。山の辺を山浜という。単に浜という。山浜のことである。
  これを、しのう(sino・u、uをはっきり言う)用語である。
  しっぱらの山という。これを、レブホルという。レメンセのすすゆす、
  という。後、レブロルという、レブロンという。レブが自分を表すひに、
  島である意とぞ。
  ワン・ハッセという、島らるのおこと、という。めべれるゆわれ、
  という。
  アーヒル・フンフのけって、という。これを、とら、とぞ。
  とらのめの言いの大津という。大津用語である。とらのめの津をいう。
  大きな津を大津という。山の大きな原をもいう。めっすの言葉という。
  メレテルのゆいふし、という。この『ゆいふし』の『ふし』を『ふす』
  という。付す、とぞ。譜にすれば、譜す、である。
  賦にすれば、賦すである。『ふ』を書きという。けんてるの書き、という。
  あわせて、『ふ』である。しょっぱの山という。れるれるのゆい、という。
  ゆい浜のおで、という。浜を『ゆい』という。ゆいしょの場の言い、とそ。
  ゆめゆめるるる、るるるはる、めすれすすゆれ、これをとぞ。
  ゆめゆめの花である。言葉をはなという、みってるのことお、とぞ。
  みつゆつの山のおえ、という。ベルセルのゆっす、という。
  れむれるえてす、という。これを、ラット、という。
  めとよとのうち、という。ベラルゥのことおと、という。
  ベッセル・モンゼーという。ベブスムのくりゆり、という。
  とらのめが、くる(操る)をいう。ゆぜ、という。
  台風が繰る話という。ゆり風の語元とぞ。ゆりくり、という。
  ゆっすのはれ、という。これが、後、晴れをいう台風の目という。
  台風の目を、ゆっすゆ、という。晴れている話という。
  台風の目をめる山という。台風が山にあたり、めを『と』という。
  とっするせてそ、という。台風のと、という。これを、とらの言い
  という。とらという動物のトラの歌という。その意味のダビ、とぞ。
  この言いもある。旅を虎行きという。トメラルのゆいふり、という。
  虎行きしぬらー、という。旅出のうらろ、という。旅程の話である。
  ぺっせのおいとき、という言葉である。
  台風をおうという、背負う台風の風をきくという。きくゆす、という。
  台風のゆりをきくという、きくゆすという。
  古い日の壬生の話である。この壬生を見部という。けんしょくの身という。
  六段の私である。剣術六段とぞ。ペンの駄作を、そういうのである。
  ペンマン失語である。後、ペンマン・シップという駄作家の初段である。
  これを、1を6という。6進数の数学である。11という数字を手という。
  片手のペンの指という。11本指という書作のことをいう。
  作家を11本という、11本指である。手をごという。五本指を、ペン持ち
  という。ペラルルのおゆれゆ、という。筆をべという。これを、
  便筆という、便筆の語元である。ベブロンから解した語元である。
  古くの、ダビやら、である。ダビというえてのおろろろ、という。
  おろろ書きという、便筆文書をいう。おろろ文の話、これにる。
  ゆわっしょれってそ、れてんてのおろろ、という。
  おろち山の山、蛇ゆりの台風とぞ。蛇の動きのような台風である。
  横竜巻の形容とも。横竜巻をれっぽという。れぽれる山のお書き
  という、台風論書である、上の文である。
  蚕の台風という。添削の語元である。字を海という。字海のよたれよ、
  という。よたれそつねならん山々のおり、とそ。やうやう(ya・u・ya・
  u)のおほるせせよす、とそ。れむすれるやっつの、ここほほ、という。
  これを双頬という。ほほをここという。こすゆすのおほ、という。
  これを、めてゆす、という。めめのお書きという。蚕の台風を文つ
  という。文通という。手紙が行きかう山という。蚕の目を津という。
  おづ山のお書きという。これを小津(おづ、しょうづ、しょうしん)と
  いう。大津小津の台風という。子連れ台風のことをいう。
   台風をめでる文書である。目が出た台風という。正月に吹く台風を
  おっづ、という。おっずめす、という。おずめすのやお、とそ。
  とぞをとそという、たいよの山という。
   文書をやれという。やれふれの書き台風とそ。正月を初月という。
  台風初めのお筆、という。これを、かいらく、という。かいらく文
  という。本書である。後、かいらくを、せつ、という。かいらくせつの
  お書きである。蚕の台風、遠い日の台風とそ。
   台風は二つくる、という。この『くる』をいう。栗という。栗頃台風
  という。くりうすの言い、とそ。とその山のお書きという。
  ペルレルえてん、という。これを、けい、という。けいてん、という。
  天井の工法である。けいてんの山という。丸い天井の蚕目という。
  蚕目のけいほいという。軽法、かるるれむ、とそ。
  略
  しの歌であるひに、初めの歌である。君は行く、という。
  君行きの生きるとも。これをいきの屋とそ。いきる人という。
  生きる人である。台風の山のうい、とそ。ういがはじめである意とそ。
  歌のういをいう。これをウイ歌という。ヨカヨカという。
  よいという、いいの山お言いとそ。
  『ヨカヨカ歌じゃ』という、ウイ、歌である。後、フランス語の
  ウイになる。ダーウイというにっぱつの言葉という。にれんともいう。
  フランス語を台風という。台風語である。フランス語のあだ名である。
  ウイ言葉である。二連台風のとおる、とそ。フランスをいう、
  フラレルお国という。ベレレルの組み語という。フランス語の造りが
  そうである。セ・ボンという。セという。ここのおこと、とそ。
  せぼんのお書きという。
  駄作者解説である。この解説の解をとる、解国とそ、フランスの
  ことである。フラレル・モーゼという。牛のモーの背中という。
  モー語という、フランス語である。じゅっべ、という。
  これを、ジベーとそ。じゅうが十を意味するひぃに、十説という。
  じゅじゅの山という。じゅが私である意とそ。自分をじゅという、
  十本指のお書きという。これを、名駄作という。妙な文である。
  台風の日本である。日本を十本指というあだ名の日本という。
  日本があだ名である。二本国という。双国の山という。
  三本国は日本の箸である。二本を一という。一本山の麓という。
  ろくろくのいった、という。いったらのやお、とそ。
  ろっぷすという。ろっこくという。ろんの国という。
  これを、にほんろん、という。にっぽん山のお書き、とそ。
  日本論の二本ペンという。左手で書く書きを、れってす、という。
  今は、電子になる。電子書のおゆふ、とそ。本書である。
  略
  言葉を大切に扱うろっこくである。ろっこく人である。
  ろっこくろくをモーゼという。牛の背の書きという。
  牛の台風という。台風の目に台風が入った台風である。
  モーゼガルという。ガルガルの言いとも。ガル台風という。
  子供を守る目である。台風のみ教えである。これを、身教えという。
  見教えでもある。教えを見る目をいう。主として駄作による
  話である。駄作のろっこくという。語元論の解という。
  これを、かいらく、という。後、快落、後とそ。
  論を論語という。シは行く、とそ。私は行くの意。
  これを、知るや、という。『知るや』の『や』が、
  矢という。これを、シ矢という。資質の語元である。
  やを知るという。知る話の語頭とそ。
  子曰くを知る私とそ。この私をシという。これを、
  私矢という、自分をシという、シシツという。
  これが他分である。自分をシブンという。これを、ワタクシブン
  という。私分という。シワキという、しわけの解である。
  しわけという。仕訳の訳である。私訳という。
  フランスのコッポという。けいとくのれれす、とそ。
  略

【焼き声】
 声を焼くという谷狭座(たにはざ)の山。えて山のお絵という。
るる降る光のことを、陽の声とぞ。これをれつという。れむせるやくる、
という。せせ降るろろし、とぞ。こわおと(声音)の歌という。これをれぱ
という。れむんぜのかゆれとぞ。れれんそのふゆるる、という。
めっせるくうゆうのぺぶれ、という。そそ降るひひかるやら、おりそ、
れれそ、れれふ。これを焼くという。むみそのけるふる、れれめる、
ろるすゆ、れれ降るろりろり、とぞ。
 陽の光をめずれという。めめの山のおくれ、これをとぞ。めふれる
るすく、とぞ。めめやのおきれる、せせほ、るるす。れるれるの音という。
この譜である。
 出だしの半音がゆれをいう。光ののどけ、という。のどかのくりるる
お言い、という。れむせるけるれ、ここゆ、せせらせせろ、あせるるすすゆ、
せむてれれつる、れれんほ、れれそのやおほる、とぞ。『やおほる』を
『やっほ』という。あつれつ、れれのふゆれる、とぞ。これを、ふりふる、
という。ふるふるのやられ、とぞ。声を焼く、きこれむ、とぞ。
 おせらふうふうのふゆれる、という。これを、ぞめそ、とぞ。
たにでら(田に手良)とぞ。てにてら、とも。るるすの山の沖、これを、
すれ、とぞ。すれという。後、するという。ややの谷越え、谷声の響き
返りとぞ。れれその意とぞ。やむせるらむふる、という。ここを、谷尾
という。ここゆるふれる、せむてる、ふるせるおゆふ、という。
これを、せつる、という。せるせるの山という。ふれ山のお絵という。
 れずれるそむそ、これを、ふゆれる、という。せせふる、日の世の
お絵とぞ。谷々の山、やつほのやっほ、とぞ。八方の谷、これゆらる、
れてそ、という。けれるれのぺぶし、という。れめれめのおくれる、とぞ。
これをぺぶしかという。えてるてのやろうとぞ。めめの世のするす、という。
としふるれむそ、これを、ゆゆゆ、という。ゆゆてる、れむれる、れれふ、
これのかゆれとぞ。れむせのや、これをやおいという。やるやるの山、
るるそのお谷という。おれるるすすぞ、すゆるせむ、とて、れれふる、
ろくそる、という。これを、ふゆれる、という。ふふすの山、これをとぞ。
とぞれるのかゆふ、という。かゆれふくる、れるほ、れてんそ、これをこくれる、
とそ。とその山、これを、やむて、とぞ。とそとそのとぞ、とぞ。
えてふてのお書きという。ろめす山のお絵、これを越えたるるよの、こえらる
とぞ。てよてよのふき、これなるを。
 音楽の付記のめでである。
 大谷行きともいう歌とぞ。
 ロング・トーン・ロンドという。ワーフルゥのせてるきとぞ。後、ロンドラン、
ロンドランゼルという。ラップル・レップの山のお絵とぞ。歌の造りをいう。
ロンド・レールのおさはさ、という。これを、かけゆり、という。後、いまゆる、
という。えふてるの歌でし、という。歌をてというはたらしの山という。
山ゆえのけれる、という。めてすて、という。めるるろんぜる、という。
この歌の意である。
ロンド・ラッケル・レテステとも。この歌の題である。
メ。

 尚、解答について、文献書籍、スマホ等持ち込み可。
 参考文献、『社会心理学』『犯罪の心理』『パブロフ心理学』他、
       インターネット諸サイト 
 出題:秋残り社会人学校世渡り雑術科教師 穂乃帆 人部(ほのほ ひとぶ)  
 
【一答案】 
【評】 70/100

 
【和音】


【歌詞】

 
ソウキョウ 1817/06/14つつづゆるゆ(ほそす、とも) 
900三条川原,100四条の森,1400静小島,1800五条川家
京都府凶都上空くくく

      秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』
       蒼郷 鳴恭川世讃歌 の項     
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物
       
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
秋残り市立美術館秋期展示
『古譜661大原練習281天の下96繰今日のお行き(ダビ光、ダビの星)(壮強太陽)』 
























    著者@350上巣真芯、植え住まし
        UESUMASi W.E.州 Machine  
-----------------------------------------------------        
 仮想店 出品 ID:KoH'yosi-66517
     画商『加端』名画専門
     豪華額縁付 2000円ヤナギ
***アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ***
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
 ----
ブログでの団体名、個人名、他名称などは、
全て、仮想です。実在とは、無関係です。
楽譜の作曲者名、作詞者名等はもちろん、私が
勝手につけた名前で、ええ加減に書いてあります。
同じ名前の方がおられましても、その方とは、まったく
関係はありません。実際の作詞作曲者は、私、駄作者の
秋残り、本ブログ著者小林壱裕です。
記事は架空です。著者@350,633
Notice;writer says;
Names are virtual on this article.
Matters are not real.  
posted by 秋残り at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2017年09月16日

卒業1864・京都船旅764古譜634大原練習254天の下69鳶(壮強太陽):イカスミ柳

そうきょうの思い出し:日能野鷹世
字(あざ)のほうぼうで、腹を横に書く。:日山吹 柳
かいきょうのそうきょうはよい時です。:日スモモどくだみ
そうきょうのよい自分です。:日山吹 餡
天の下、山拝み。つねづね。:日紙祖川劣る

【曲名】卒業1864京都船旅764古譜634大原練習254天の下69鳶(壮強太陽)(鳴恭川世讃歌讃歌)
【創曲】2017/08/26柳晴創曲、気公 劣 造詞、穂乃花 香 監修不州 不貴(秋残り市在)
【拍子】
【種類】ジャズ時雨
【演奏】往来歓楽家、火打石愛好会の皆様
    仮名小文字ローマ字混ざりあえ
【場所】4戦回演、秋残り劇場
【歌詞】蒼郷 (紅世赤夜章)
いつも我が家の空に高く輪をかき
とび飛ぶ 二羽のとんび じゃれあう
中空 青空 いいぞる よいぞら
牛が見て母モーと鳴く 山羊がたって
牛に挨拶する我が家の前 生き物の
住まう園 翠の夏 おわら風が
吹き抜けた谷間
  
 狐の天気予報。〇r2017/08/28
 狐と。 過去をとく、という。
 場所、そ。 狐言:こって。
 狐晴れを、柳世葉とぞ。 
 桃晴れごぎつね  
   ((明日晴れたなら行こう、大原砂山))   
【解説】君、探敵中、情景。 破風之談
柳太陽
------日出葦談笑聴
明日晴れたなら行こう、大原砂山  
品花雲しなよる〜〜柳雲〜〜山吹雲〜〜桃雲〜〜銀杏雲〜〜朴ノ木雲
Be in Ideal town.
【和音】
 私がつけたコードです。
イ短調Am曲で、i iv v i 進行です。
各段、Am Dm Em Am の進行になります。
3つ目の、Emで少し違ったコードをつけました。
2小節目、Dmですが、タイの部分、先取りにしました。
 3小節目、Emのコードになりますが、和声短音階で、
E7になります。ミ、ソ#、シの和音ですが、展開して
シ、ミ、ソ# で、このミ、ソにかけて、Cを充てました。
ソ#ですので、Caugとなります。E7の替わりにCaugを使い
ました。
 2段目の3小節目、Em ミ、ソ、シの和音ですが、
ミソシレでEm7となりますが、ソ、シにかけて、
Gを使いました。レをいれてテンションにしました。 
 あと、Bdimを入れています。
 こんなことせいでも、Am Dm Em(E7) Amで
いけます。

【歌詞】
再見再覧、これを再会という。
 
ソウキョウ 1817/05/21つつづゆるゆ(ほそす、とも) 
900三条川原,100四条の森,1400静小島,1800五条川家
京都府凶都上空くくく

      秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』
       蒼郷 鳴恭川世讃歌 の項     
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物
       
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
秋残り市立美術館秋期展示
『古譜634大原練習254天の下69鳶(壮強太陽)』          
馮飛菊 画書家判 かという字。
秋残り市、凡人倶楽部所属、凡(ぼん)




    著者@350上巣真芯、植え住まし
        UESUMASi W.E.州 Machine  
-----------------------------------------------------        
 仮想店 出品 ID:KoH'yosi-66247
     画商『加端』名画専門
     豪華額縁付 2000円ヤナギ
***アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ***
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
 ----
ブログでの団体名、個人名、他名称などは、
全て、仮想です。実在とは、無関係です。
楽譜の作曲者名、作詞者名等はもちろん、私が
勝手につけた名前で、ええ加減に書いてあります。
同じ名前の方がおられましても、その方とは、まったく
関係はありません。実際の作詞作曲者は、私、駄作者の
秋残り、本ブログ著者小林壱裕です。
記事は架空です。著者@350,606
Notice;writer says;
Names are virtual on this article.
Matters are not real.
posted by 秋残り at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2017年09月15日

卒業1861・京都船旅761古譜631大原練習251天の下65鮭(壮強太陽):イカスミ柳

そうきょうの思い出し:日能野鷹世
字(あざ)のほうぼうで、腹を横に書く。:日山吹 柳
かいきょうのそうきょうはよい時です。:日スモモどくだみ
そうきょうのよい自分です。:日山吹 餡
天の下、山拝み。つねづね。:日紙祖川劣る

【曲名】卒業1861京都船旅761古譜631大原練習251天の下65鮭(壮強太陽)(鳴恭川世讃歌讃歌)
【創曲】2017/08/23柳晴創曲、気公 劣 造詞、穂乃花 香 監修不州 不貴(秋残り市在)
【拍子】メロディ部分、フリーソフト使用
【種類】ジャズ時雨
【演奏】往来歓楽家、火打石愛好会の皆様
    仮名小文字ローマ字混ざりあえ
【場所】4戦回演、秋残り劇場
【歌詞】蒼郷 (紅世赤夜章)
鮭登り家へ来る 屋根がある 鮭のうち
楽しくも安心の自分の家   鮭住まい
雨が降る そんな時 家にいる鮭夫婦
晴れれば遠くへ出 手振るそぶり鮭親子
  
 狐の天気予報。〇r2017/08/25
 狐と。 過去をとく、という。
 場所、そ。 狐言:こって。
 狐晴れを、柳世葉とぞ。 
 桃晴れごぎつね  
   ((明日晴れたなら行こう、大原砂山))   
【解説】君、探敵中、情景。 破風之談
柳太陽
------日出葦談笑聴
明日晴れたなら行こう、大原砂山  
品花雲しなよる〜〜柳雲〜〜山吹雲〜〜桃雲〜〜銀杏雲〜〜朴ノ木雲
Be in Ideal town.

      秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』
       蒼郷 鳴恭川世讃歌 の項     
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物
       
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
秋残り市立美術館秋期展示
『古譜631大原練習251天の下65鮭(壮強太陽)』          
馮飛菊 画書家判 かという字。
秋残り市、凡人倶楽部所属、凡(ぼん)
 
『古布に描かれたもの 江戸暦牛年麹。日月梅日』
槙之木梅之進撮影 そうきょうの葡萄道堂裳楼の屋にて
陽が清きという所
『Old piese in old book, July 4, dragon'6』
camera shoot″。日Umenoshin Makinoki


    著者@350上巣真芯、植え住まし
        UESUMASi W.E.州 Machine  
-----------------------------------------------------        
 仮想店 出品 ID:KoH'yosi-66217
     画商『加端』名画専門
     豪華額縁付 2000円ヤナギ
***アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ アザ***
***コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ コテ***
 ----
ブログでの団体名、個人名、他名称などは、
全て、仮想です。実在とは、無関係です。
楽譜の作曲者名、作詞者名等はもちろん、私が
勝手につけた名前で、ええ加減に書いてあります。
同じ名前の方がおられましても、その方とは、まったく
関係はありません。実際の作詞作曲者は、私、駄作者の
秋残り、本ブログ著者小林壱裕です。
記事は架空です。著者@350,603
Notice;writer says;
Names are virtual on this article.
Matters are not real.
posted by 秋残り at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽