2015年03月29日

卒業632・尾瀬 :イカスミ柳

【曲名】『卒業632・尾瀬         
     (ハンガリアン・マイナー西山讃歌)』  

【創曲】2015/03/29創曲造詞
【拍子】 5/4
【種類】ハンガリアン・マイナー
【演奏】
【歌詞】王蝶飛
    (楽しきは記憶 古い日我が胸)
    晴れた日 水膝まで 大鷲が飛ぶ
    ワニが泳ぐ 故郷は 古い日の
    物語 思う懐かしのあの日々
    遠い遠い私の記憶にある景色
    トウヤは走る 大蝶が舞う
    いずこの地 私の尾瀬の沼
    紀美の朝
    紀美が朝早く起きて尾瀬を見る
    忘れずおもい出す日 幾たびも
    消えて現れる故郷はいつも我が
    胸にあり おおばあられたりあの日
    遠い遠い記憶の果てに光り給う
    おおじは今も胸におありたまう
    尾瀬の沼の故実の日 
    

【解説】尾瀬之里国起草郷
     どこの記憶であろうかという。
    卒業という632番地である。どこの
    場所か。『キミイル日に見る』
    という。シークレット・コード
    である。これを言えばわかるという。
    紀美の記憶があるという。余が憶えて
    いる。そういう紀美である。また、
    行く日がある。ここに書かれた余の
    記憶の浜という。あえばパッと分かる。
    紀美の人という。余の記憶の確かさと
    いう。これを故実という。故実の日
    である。これが解である。貝がいた
    という。古実貝という貝である。
    これが紀美を介く(たすく)貝である。
     貝に助けられた人である。貝の船と
    いう、貝船である。船が回った所である。
    大勢の魚と貝と船、草という。ここを、
    おおぜという。後という。船の尻尾の
    勢いのおぜ(尾勢)という。後という。
    尾の背という、おぜ(尾背)という。
    里の瀬である。これを里という。
    里のおぜの、古実の地という。
    ここを、おぜ(尾瀬)という。
    という話の背負った余である。
    ワニを背負って歩いた余である。
    ここを、ワニ負い浜という。むみに
    よる余の解である。新しい日が来る
    という、この話という。新しい辺りである。
    これをシークレットという。シークレットの
    紐である。シーク漁という。漁法の話である。
    ワニを呼ぶ余である。どんなワニか。
    恐い顔をしたワニである。カイマンという名
    という。貝満ちる浜ともいう。貝満浜という。
    ここの景色である。古実の尾背という。
     貝満日和の日のことを故実日という。
    古くに、古実という。秋残りの市の一古風景
    という。大きな沼という。クジラもいたという。
    そういう秋残り市である。ようようよう。
    確かなるかな我が記憶装置である。
    記憶草地である。記憶装地ともいう。
    厳かな文章である。厳文という。
    古実ゆかしい我がメモリーの文である。
    膝までの目盛りである。その場所に佇み
    憶えた余である。むみによるという。
    むみになる目盛りである。記憶の目盛り
    という。6、3、2のむみ憶えである。
     記憶を尊ぶ紀美である。余の記憶による。
     
    とうや、豚のこと。
      秋残り市尾背方言である。 余、注。
             
     秋残り世界文学全集 巻2
      『余は機械である』 
       記憶様 の項
       秋残り市史編纂員、余。 
       秋残り市史篇絵巻物                               
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい時です。
 そうきょうのよい自分です。 
 著者@570上巣真芯
     植え住まし
     UESUMASi
     W.E.州 Machine
 音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
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   秋残り市市立美術館春展
   『尾』
    若ノ森 画用
     
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***

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                  著者@570
 
posted by 秋残り at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽