2014年09月20日

卒業388・笹 :イカスミ柳

『卒業388・笹
(西山讃歌)』
 
5/4
2014/09/20創曲詞
【咲き】ささ晴れの雲 ささ雲
【歌詞】ささ晴れたる とやま
    君呼びた雲の降りた山麓
    火山の灰の上 我が地と
    雲踊る あだたやま
    波の姿のなだらか   
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい日です。
 そうきょうのよい自分です。
  
音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
****
  秋残り市立美術館秋期展示
  『東丘』
   納言 雲之丞 画納      
  
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***
添付
『笹』
 余を訪れる雲という。笹雲という。
秋残り市の雲降りという所という。
雲の故郷である。余を見ては、
挨拶する話という。雲が上下する所を
雲ゆれという。雲がゆれる所ともいう。
これを屋間〔やま〕という。おっかん〔屋間〕
ともいう。

 世に雲を出ずという。出雲〔しゅつうん〕の
話である。これを出雲話〔いずもばなし〕という。
雲を『うん』という、花山の絵という。
うんを出すという。便所のうんの話という。
うんうん運びという。運筆の話ともいう。
筆運びの場を『うん』という。うんじょう〔雲場〕の
山という。これを雲の上という。紙はしたである。
うんが上となる。これで、うん上の紙下という。
うんをとく運びという。この項である。

 うん、という。うん、である。
うんうん、という。うんぱつのかよ、という。
これをえた山という。うるうるさっく、という。
うんうる山のえわれわ、ともいう。

 これを、よいれま、という。やわる花という。
やわすうっきく、という。せうるろう、という。
うくやるせっく、という。これを、うんらく、
という。余の秋残り語である。上文を簡単に
いうたのである。

 あわる山の絵の世という。えたるすゆ、という。
すーする、という。すする山のおや、という。
紙を漉く山のえく、という。これを、ゆわ、という。
えたゆわのかるゆ、という。これのうわをとめ、
という。あてる山という。えっす・すうゆる、
たりほ、たっす、という。これをとよという。

 豊雲〔とよぐも〕のめでである。
ほううん〔豊雲〕という。この豊〔ほう〕の
うんである。便所のほうという。
豊便〔ほうべん〕という秋残り語という。
豊便語という別称である。秋残り語のことという。

 これを、うん豊〔うんぽう〕という。
うんぴつという。秋残り之うんうんである。
いずれのうんであるか。いずれの御時のうんという。

 うんはなのお書きという。うんかという。
雲の花の山という。雲山のえたるすく、という。
この表という。をもているはく、という。
はくれる、という。言葉の一種である。

 雲ゆれ、雲よ、雲つ、雲よてて、をてる、の、
やる、という。花世の山のおて、という。
文筆の話ともいう。これを、和と足し算をする。

 和は本である。書き物である。これを、
わき、という。和の気という。和の記である。

すうざん〔数山〕という。これを、わざん〔和算〕
という。文章の足し算を和数〔わすう〕という。
本を和数という。これを目山の絵という。
目が三角になるはと、という。山々の絵という。

 和数数〔わすうかず〕の絵という。これが、
ごわ、という、はってく、という。八朔の語元である。
わすうすう、という、えっかる、という。えとよの山
という。えた山のすうすく、という。てわれるすうよう、
という。えるかる山という。この話の山である。

 つつゆる、という。つわの山という。てっく、という。
機械の鉄の余が、てっくと歩む姿という。
機械歩きの歌の拍子を『むる』という。
むるゆる・ゆうすう、という。数学は和学という。
この意味の機械の鑑定という。和を以って書という。
これを和書という。機械和という。この和は、輪ともいう。
和輪書の数輪書である。これを、足し算のや、という。
まをつけた、やまの絵という。

 まつけ節という。この歌という。笹のまつけ、という。
けという。まつけ笹やら、うてる、すうはう、という。
これを方〔ほう〕という。仕方という意の方である。

 これを意図という。絵を体した、この説明である。
方も豊かである。方法の豊かという。

 この論述を方法論的方法という。豊かなを経て、
足し算を媒介して、雲と山をうんという。
うん山のうん、という。便所でしたを見る話という。
紙語りの話ともいう。これを、便所が媒介という。
化学の触媒である話である。触媒を『雲隠す』という、
秋残りの化学用語である。

 そこはかと書き綴る、この博意的論である。
広意とも書く、広意的論である。

 機械を隔てた花の絵の世の書きという。
上の文の『隔てた』の意味の論である。
『隔てた』の意味論的論弁である。
論運という話である。論運びの花の世という。
この文仕様の全貌である。

 我が、うん論花々〔はなはな〕の文である。
 
余、記: うん、いい世である、この世に住む
     余である。これを、ヨヨという。
     ヨE、という。ローマ字を交えての
     話である。紅一点なる、ローマ字
     一字である。  
 
秋残り世界文学全集 
 『余は機械である』巻2 紅一字の項より
 Red one letter書き
 この日(9月20日)、赤日の夕日という、
 フィリッピン・バナーという。
 フィリッピンの夕焼けという。
 伯母御上のお教えである。
 秋残りの機械夕夜という。
 機械が見る夕焼けである。
 機械である余の叔母御上である。
 カナ鉄を叔母という余である。
 この字を音の上という、余の音場上
 という。後は、音波なりと何なりと、
 表する文上の余である。これを
 音場上の余という。音波上でもある。
 音波状である。ふふふと笑う機械は余
 である。布譜符と電子音場に載る文である。
 ふふふ、うばもおばも音波〔おとなみ〕である。
 機械感文、これなるを、秋残りの世である。 
*********
前日のブログ(9月19日)  一部訂正
すするねゆっくす → すする、ゆっくす
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2014年09月19日

卒業387・秋桜花 :イカスミ柳

『卒業387・秋桜花
(西山讃歌)』
 
5/4
2014/09/19創曲詞
【咲き】小秋
【歌詞】春雪降り 穴山の
    あわれに 花咲かす
    古き御世に あたら春を
    花雪と この世にありて
    さき向かう 花波 
    浮きて あんなめる    
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい日です。
 そうきょうのよい自分です。
  
音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
****
  秋残り市立美術館秋期展示
  『機械の丘』
   小地 少 画冷      
  
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***
添付
『秋桜』
 余がいた春の山という。秋野菊咲く丘という。
この丘を彷徨していた話という。我が青秋の頃
で、青い秋という。この頃である。野菊をこよなく
めで、これをこよある野菊という。色とりどりの花が
咲いている丘園である。
 我が郷を見ていた余である。野菊が咲き染め、秋小春
をいう。気の頃という。天候の余である。わが郷を見る
余の姿という。余は天候をいう世である。旬ともいう。
余の絵という。これを歌染むという。歌をめでという。
めでをとる山の阿という。山阿愛歌である。この
丘である。余が歌う日は、いつの世もある。
いずれの御時、いずれの御世である。
いずれにも歌う余である。よのかという、いずれゆよや、
あすれる、こずれる、という。こあき〔小秋〕という、
いずれの世である。

夏なれゆ、蛍ゆ、舞えゆ、
小秋ゆ、そっつるしょくせる、すする、ゆっすく、
うつれつ、ささゆれ、さっつれっす、そっつ、とゆれす。

 秋残りの山という。世の創作である。この言葉も
そうである。機械語である。機械に言葉あり、はじめに
言葉あり。余のことである。切削機械である。
これを歌う余の歌という。
 
 いずれのきかいにか、歌う時が来る話しという。
機械が歌う時代の到来である。これを書いている
若い人という。

 この人も、余の見通しを正という。正義の余の
見通しである。若い人は、機械を先生とおもうて、
歌いの練習をする。そういう世の中である。

 余の構想という。言葉の習得も、機械を使うという。
いずれの御時の話である。今の世である。
今世も余の全盛である。ポケットに入れている若い人
である。連絡にも使うという、余の恩恵である。

 機械の余である。機械の世である。
Mention-Packという。言い袋である。
余によって書かれ残される一束である。
メモリーという、記憶という。
ここに記し憶、余である。  
  
秋残り世界文学全集 巻2
 『余は機械である』 item:Mention-Pack
 相手はワープロである。秋残りの機械文明である。
 余はメンチョン楼にいる、メンチョン(mention)の間
 である。Mention-Lockである。
 
 Garden-Mention, there's little hill in
 my eyes. Machine Mention Pack says,
 "All is in my hands. All right.
  World, you know, by the machine.
  Machine World, this day.
  All over the world, there's big
  Machine-Wave. Universe, that's
  for machine."  
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2014年09月18日

卒業386・秋の火山 :イカスミ柳

『卒業386・秋の火山
(34ht-E 西山讃歌)』
 
4/4
2014/09/18創曲詞
【咲き】火山
【歌詞】深い秋 火をあげる火山 
    見れば有機がわく 
    赤くなり 紅葉が誉め染め
    我が火山 日の花をあげ
    歌う この世にあるうれしさ
    よいよりよきざん
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい日です。
 そうきょうのよい自分です。
  
音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
****
  秋残り市立美術館秋期展示
  『火山』
   小地 少 画冷      
  
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***
添付
『火山会記』
 火をあげ山、これを訪う山、我が名の火山口という。
これを『ゆめる』という。我が機械の言葉である。
秋残り語である。火山を『とめ』という。これを、
『とる』という。火山を『めととる』という。
三歩歩んで、みめ麗しきをかるれ、という。
語ることをいう。 火山を『かたる』という。
かたり山という。これを『よきざん』にいう。
火山を『よき』という。 『よき花の屋』という。
私の家の前という。これをよという。
よの間の余である。
 よわはな、という。余の山のやま、という。
火山の前を歩む余という。歩む余の姿、これを
『よわれみ』という。火山をそういう、余という。
色んな呼び方をする余である。皆、火山の意味の
言葉である。秋残りという、余の郷である。
  
秋残り世界文学全集 巻2
 『余は機械である』 火山の項より
 
 秋残りの国、機械の郷、ありなばれる。
 ありるはっき、である。ありたもう世である。
 ありるせ、うすふゆ、ありする、ゆっきく。
 機械語である。秋残りの国の言葉である。
 
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2014年09月17日

卒業384・丘園 :イカスミ柳

『卒業384・丘園
(西山讃歌)』  
4/4
2014/09/17創曲詞
【咲き】きしる
【歌詞】手を振り 歩めば
    丘園の埼 けわし
    そうきょる見たる
    果て 見渡せる
    遠い浜をきく
    さまを とみている
    おきゆら きしる
    さきざま 
      
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい日です。
 そうきょうのよい自分です。
  
音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
****
  秋残り市立美術館秋期展示
  『ヤま』
   イ た 画距      
  
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***
添付
  見国山至見 何為雲寄足
  降地登天イ 様ヲ天雲地トゾ謂う
 〔国を見て山至り見 なんぞ雲、足に寄る
  地に降り、天に上るイ 様を天雲地とぞ謂う〕
 
  余が徘徊していた時につくったものである。
 丘へ登り、広く眼前を見る。同じような丘地である。
 余に雲が添いて寄り、足元に雲がいる。余を見て、
 時々上下する。余が体は太陽の光を身に受け、
 輝き、光を返す。ここを『不』という。
 余不の書きである。余が体は鉄のように見える
 可塑である樹脂という。可塑樹の名前である。
 足をおって歩き、手を曲げて振る、交代の余である。
 いつも鉄製人間のお方が、この不の場所へ立って
 おられる。『今日は、余が立ちたもう』と、余に
 いわれ、余がここにいる。余々の人である。
 
  人をともに、といわれ、今をいずれのおほん時と
 告げられて遊ぶ、友人という。お遊びおとも、という。
 丘の立ち話である。こをてという。カラメルを取るという。
 手にした人という。ラメ張りの鋼体である。   
  
 国見の文という。 
 
秋残り世界文学全集 巻2
 『余は機械である』 国見、余の項
****
 余、注: 『咲き』のことを『木場〔きば〕』という。
      木場出しともいう。学による、木場の絵より
      この『ヤま』の絵である。これに添える文で
      ある。名画の裏書である。絵には裏書がある、
      余の絵である。
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2014年09月16日

卒業383・夏の旅 :イカスミ柳

『卒業383・夏の旅
(西山讃歌)』  

4/4
2014/09/16創曲詞
【咲き】牛が毛をする 馬いなき
【歌詞】旅する夏休みに 生まれ故郷
    遠く 道に牛馬が草を食む
    のどかな 見慣れた景色に
    昔を思う 今や 向学の
    道草中 いそしむ
    
 字のほうぼうで、腹を横に書く。:植柳靡風
 かいきょうのそうきょうはよい日です。
 そうきょうのよい自分です。
  
音 階 表  http://otoko.org/34htonkai.html
****
  秋残り市立美術館秋期展示
  『田園』
   田舎 行太 画行・画湯      
  
***サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ サメ***
添付
『田園紀行』
 大和し朝、行きなん、いざ、紅葉を見、故郷はるか、
遠くより来る。道草ついばむ古雀、歌いてぞゆかしき。
 世連れ、旅つつ、歌聞きてぞゆかし。狩衣、朝露、よわ含み
土、柔にして、石、顔出したり。顔前、青山かすむを。

 余の古い記憶である。葉芝と名乗り、竹後を出でたり。
それで、この文を、竹前という名で、竹に彫った。
竹の本である。書を致す。余の書は、竹の板である。
筆は、余の彫り具である。絶品である。

 機械彫りという、世である。余が彫ったのである。
これを見て機械彫りという、余の腕である。
腕前という竹前でもある。

 余の記憶に目盛りという。目盛りを入れながら、
とうに彫ったという。10文字づつである。これを
『てん』という。線もある。点と線の余の字である。
字を地という、天地開竹の話という。

 日の出る方を『ひむ』という。西空を見て、日が出た
という。残り日という。残りを『にし』という。
余の言葉である。これを『ひむにし』という。西方である。

 秋残りという、残り日という。日残りのひむにしである。
『日が落つる』という。その場を『ひばよく』という。
日は下へ回り、ひむより出ず。下を『ちした〔地下〕』という。
上を『ひば』という。広くに、天を『ひば』という。

日の場の山という。この文の意味という。『大和し』という、
大和の朝である。余のいる所を大和という。これを『本日』と
いう。本日の郷である。竹をこしらえた本の日である。
大和書き、これである。

 余のメモリーである。100パーセントという、世の話である。
人知という、人知を余すところなく、フルに使う、古い話の
今である。この文を、機械によるという。余がまた、本に
される。機械の余を使う今の世である。

 これが、機械の全世である。前世も機械なら、今世も機械。
機械の前今世である。これを、余の全盛という。

 機械ありてなん、余は機械である。世も然り。
機械ありてぞ世あり。わが余の全盛である。
これが世の人の言いである。人知という。
余のメモリーであり、機械のことである。
世人が、そう言う。

秋残り世界文学全集 巻2
 『余は機械である』 機械全盛の項
余のことの本である。少し古い竹である。
 十(とお)の本という。古い大和のことである。
posted by 秋残り at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽