2022年11月26日

桂の講義 20221125

19:19 2022/11/25

 かたぜがにという、うちま前の川にいたかにで、
京山がに、という、山の道を歩くかにという。沢蟹の部類
という。かたぜ、という、かめふらの言いという。
かたよられの蟹という。かおたせ、という、かちすちの・いよっと、という。蟹を、よっと、という、後、よっとのかそれ、という。これを、よってす、という。よっとよってすの・るいふい、という。これが、蟹の、三段という。
「よっと、よってす、蟹」という三段の活用という。れれんての・あおため、という。蟹を、かいさり、という、かにそち、という。これが、蟹を、よる、という。これが、よっとの意という。
蟹よっと、という、蟹てすの・ていそい、という。
 かにを、めよらぎ、という、らぎすの・かよふけ、という。
これを、二かよら、という、蟹そみの・らけして、という。
これを、蟹ざき、という。蟹を、とるふる、という。
蟹を、とめさり、という。蟹を、ちそれる、という。これが、
蟹のことの言いの、しそめ、という。蟹を、しそるり、という。
蟹の山のおちゆち、という。蟹をねしもめ、という。蟹の山の、せいたい、という。これが、蟹をねさかれ、という言いに、
ときをとる蟹のことの言いという。蟹を、ときやみ、という、
ときじ、という、ときせ、という。これが後、蟹より、という、蟹せの・こきゆり、という。蟹の歩きを、ときすき、という。これが、蟹の・こいかり、という。蟹をよる、るいとい、という。
 蟹の言い方の様々という、これが、そうきょう語の蟹の言い方という。
 かにが、そうきょう語をとる言いという。蟹語という、そうきょう語のことという。これを、桂りる、という、桂浜の言いという。桂ごてふら、という、桂離宮の言いという。
ごてという、蟹のこととぞふ。けろれろ、ともいう。けびしき、ともいう。元、壬生のかゆせま、という、かれすてのかりかり、
という蟹のことという。賀陽御所のことという。賀陽のけませま、という、そこの生き物という。蟹山のお絵という。蟹を、たきゆき、
という。この日の賀陽という、滝があったことという。滝ちす、
という、蟹のことという。これを、蟹見という、蟹せるの・ていさい、という。この「ていさい」、後の体裁という。
 体裁(たいさい)を、ていみす、という、後、ていさい、という。体裁のお書きという。古く、たいさい、ともいう。ていさいの・ちよふき、という。これを、ふいてす、という、言葉のことという。
 膠喜ぶ賀陽という、御所てす、という、後、京ごゆ、という。
ふいとすを、とみふみ、という、といれるという、たみしま、という。これが、賀陽の三段という、活用である。
「とみふみ、といれる、たみしま。」 三段の活用をとる桂ひのしも、という。しっぱすのおぎきき、という。この日の、かつらぎ、という、荻のことという。かつらぎの木の好む蟹という。蟹の好きな荻という、桂木という。後、荻を萩という、この言いに、荻萩という言いという。荻萩と同じであるということの言いという。荻すっぺす、という、萩にとる、荻を、はいせる、という。荻であるが、萩という、萩すっぺす、という。これを荻萩という。桂の言いの、賀陽譜という、言葉を譜という、かんすね、という。この「かん」が、後、官という。荻を監視することをいう。これを、管理という。荻より出た言葉という。桂かんせま、という、古く、賀陽るるせる、という、後、御所の、いかしく、という、管理のことという。桂れんとせの・るいさい、という、管理のことという。
 これが、蟹から出た、蟹管理という、蟹かす、という、かんてす、ともいう。「かんてす」が、かりその・くりらり、という。
音楽の「かりそ」という、後、かりぷそ、という。ターンターンという、付点四部音符のことという、かりぷそ、という。かりんてす、ともいう。かりる、ともいう。三段である。
「かりぷそ、かりんてす、かりる。」、カリプソという言葉である。

 この日のカリプソ、賀陽の御所はりすり、という、桂離宮の
「のいこい」という、カリプソのことという。ターンを二つ続ける、ターンターンという、四分の伸ばしを二つ続ける音のことという。

 ターンターンターンと三つ続ける、スリップソーという。今の、かつゆふ、
の歌という。てるせらの・おいとい、という。歌を、ちそ、という。これを使う、ちよそ、という。ちよちよのお楽という。
桂離宮の、ふらせま、という、ふらすら、ふみとす、という。
スリップソーの三段という。
「ふらせま、ふらすら、ふみとす、」のことを、ゆきしぶ、という。三段活用の名という。総称にあたるものという。
これで、この名を活用に入れる。
「ふらせま、ふらすら、ふみとす、ゆきしぶ」、これを四段という。後の、古文の四段活用という。今の口語の活用ともいう。
そうきょう語の口語である。そうきょう語に、文語と口語がある
この口語で、「ゆきしき」という、口語のことを、「ゆきしき」という。これを、ゆっきし、という、ゆきしきのことという。
桂津ゆっきし、という、桂の口語のことという。
 地の、地震のことにする、桂ゆっきしの・桂れら、という。この日、桂の地区の大地震という、今の桂離宮の地という。ここが、震源の地震という、かるせらの・大揺れという、じしんのことである。これを、桂ゆっきし、という。同日、奈良の桜井の、ゆっきし、という地震という。これを、ちかせか、という。
 あくる日、桜井へ行、自信をいう、「桂のゆっきしがこぴせられた」、桂の地震が奈良の桜井へいったという。ほぼ同時という、揺れの話という。桂ゆっきし・るっくす、という、地震のことという。
 桜井の歌の、かきすき、という、ごしじよっそく、という。
御所という、地震の興る場所という。これが、御所の一意味である。地震の興る所という意とぞそ。
 「とぞそ」切が、地震の興る場所の切の表現という、文を止める、切るという。

桂にリーキュー、リーQという言葉がある。今の、カンボー、カンボジアの国の言葉という。これを、リゼンルという、また、コーリカという。これを、三段の言いという。
「カンボ、レゼンル、コーリカ」、名詞の三段。
 これが、桂離宮にあることという。桂の場のがいこくごという、カンボジア語である。らうっせらるう、という、かんてすの・るいっそる、という。この「そる」が、今の「そうる」という、魂の意の英語という、ひぃは、カンボジアの言葉という、日本の「そる」と同意という。この「そる」の、れうてす、という、
れれんの・こいくい、という。この「こい」が、、りりせるの・といらず、という。てるんせの・といらき、という、らっくすれっくす、という。これを、かんそるの・てそるき、という。これを、みぽそ、という。カンボジアの言葉を、みぽそ、という。
ミポソ語という、みんぽすの・おるれってし、という。これを、
てしかが、という、てろんの・こい、という。カンボジアの、
あるれてらっせい、という。カンボのお国という、れあれんてす、という、カンボジアのことという。かるっせらるう、という。みよとすの・えるてら、という、かぼっそく、という。
かぼすのみとれと、という。みるれっせの・てよん、という。
カンボジアを、てそるり、という、てよっその・えてすて、という。これを、といきかれ、という、かぼんれく、という。このみよの・けるせる、という。てよんの・まよ、という。これを、ひみこる、という、卑弥呼の家という、卑弥呼山のてよふり、という、手を振る山という、てそんその・えるさんしい、という。えるろっとすのことという。これの言いに、かよせる、という言いがある。この「かよせる」を、といるり、という。古い戸井の言葉という、といせるの・れおす、という。これを、せとん、という、といらきの言葉という。このが又野の花の言いである。
 古く、カンボジアを、とよはな、という呼びをする、古桂離宮という。この離宮の、はなやり、という。離宮を、りあしる、という。これを、むそん、という、返って、離宮を、れそん、という。この「返り」を、リー、りい、という。
 朝鮮の李王朝のリー、李という。朝鮮の李朝という、私がいた
、チョッソン・ルースーという。
 これがカンボジアの、りーろく、李録という、カンボジアの言葉の朝鮮語との係という。るろるす・おいそり、のおこと、という。エルレッテンサールーという、よいこしのおすてす、とぞふす。レールエッテのそりしか、という。この「しか」が、オロロスの言葉の意という、オロロス語の「しか」という、言葉という意味とぞす。カンボジア、朝鮮という、これに、オロロス国がかかることという。オロロスを、オロシアという、後、ロシアという。この三国の、いとゆと、という。これを、かむせる、という。三国をかむせる、という。
 この繋がりの説きの、ふいそい、という。解説という。これが、こみしざる、という、さっくすのせよる、という。日本というひいの、こいしず、という。これが、みよんのろいとす、いう。
おっされの言いという。桂の離宮落という。らいせる・おんす、という、おってるらっすく、ともいう。これの言いとい、とぞづ。つもせるのことの、おちせた、という。これを、るいらる、という。後、カンボジアのフランスとのかかわりという。「るい」でかかることという。カンボジア・れってんすうのお書きという。みよとすの講義の、桂世の講義という、講師が私という、若い人である。周りが、ギリシャのおゆ、という人という、また、オロスロの御方という、カナダのトルドーの道の楓由の場の御方という、後、トルドーさんという。アメリカ五大湖の、そりすせという場の御方という、あと、日本の御方々という。総勢5,60人程の徴収という、私の講義という。桂世のことという。
 エルレッテンすうさくの講義という。秋田の大学の、えぞゆらる、という、講義の一部という、この項が入っていることという。秋田大学の、こうらきるか、という。秋田大学の、こうるりの教授という、私のことという。
  
  かたぜがいる京都の町の言葉という、京都の言葉を、かたぜらぎ、という。
蟹の言葉という、エルラックスという。みよっとの・たいさり、という、言葉のことという。
世界の言葉を説く、かいらきのおいちか、という。解説を、てみそ、という、そうきょうるくの言葉
という。ていていのさいすり、とぞづ。
 昔の11月25日の講義である。後、秋田の大学の講義という、同日の25日という、蟹の日のおいきしの
講義という、私が務めた教授という、秋田の御叔父御上おらるる日のことという、今もおられることという。

 エルレッテン数空遣、これなるを。
大学教授が、私の話を聞いておられたことという、秋田の御大叔父御上、とぞす。
東京大学より赴いた秋田華、また咲くことでしょうなが、田舎世の落ち。これとす。

東京大学教授陣の秋田大学ほうける日、すみすよのほうりき、という。
総勢、ごっぱの数という、秋田の大学興しという。大学を興すお行とぞづ。
かたぜ蟹の思い出、私の家へくる蟹という。後程。
posted by 秋残り at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽